― 失恋は突然に ― 

 

 

あと一泊。
明日になれば、また離れ離れ。
だから今日は笑顔で過そう。幸せな時間を作るんだ、なんて考えていた。
夕食のメニューだって考えたし、終業してから孝明のマンションに行くまでのスケジュールもしっかり計画出来ている。
スーパーに立ち寄って買い物をして、流行のDVDを借りて帰る。少し早めの夕食を終えたらDVDを鑑賞してゆっくり過す。
完璧なシナリオを遂行するために、頭の中では何度もスケジュールを練り直していた。


「請求書の出力と封入が終わりました。後で郵便局に出してきて下さい」
「納品の時に寄ってくるね。どうもありがとう」
束になった封筒を笑顔で受け取る志島さんの表情は、いつもより穏やかに感じる。
「昨日、彼女に面会したら前より痩せてた。笑顔で『そんな事ないよ』って笑ってたけど腕も細くて。 話してる間はずっと笑顔で…苦しくなった。彼女は俺を真っ直ぐに想ってくれてるのに、その気持ちを裏切るような感情抱いたりしてた。 夏樹ちゃんに『彼が面会に来ない。新しい恋でもしたかな。だとしたら今度は幸せになって欲しい』って言ってたらしいのに、そんな素振りもなくて」
切なそうに話す志島さんに掛ける言葉が見付からなかった。
志島さんが言いたい事は分かる。彼女を想う気持ちを再認識したのだろう。
「もっと面会に行ける時間持てるように事務頑張りますね」
「会いたくてどうしようもない時は、優ちゃん仕事全部押し付けて行くかも」
目を見て交わした笑顔は穏やかで、それでいて力強い視線だった。
この先、志島さんの笑顔を見てもときめきを感じる事はないと思う。この人の視線の先には別の誰かが居て、私の求める先に居るのも別の人だから。
きっともう迷わない、と思える瞬間だった。


夕方に仕事を一通り片付けたのを全て確認してから、慌てて会社を出た。
「お疲れ様です。片付けも手伝わないで申し訳ないですが…」
倉庫で作業後の片付けをしているパートの3人組みに声を掛けた。
「良いわよ。さっさと彼のところに行きなさいよ」
「そうよ。明日にはまた海外に行っちゃうんだし、私達に気を遣わないで良いわ」
林さんと帰山さんに笑顔で送り出される。こうして笑い合える日が来るなんて、入社した頃は思いもよらなかった。
加賀田さんは無表情のまま、頭を軽く下げる程度。最近、加賀田さんが元気がない。ただ、その事に関して触れて良いのか分からないから、言葉も掛けられずにいるけれど。


孝明のマンションの近くの駅に着いた頃、孝明からメールが届く。
【今、会社を出たから】
明日、中国に向う前に済ませておきたい仕事があるからと、午後から会社に向うと言っていた。
買い物を済ませてマンションに向うと返信して、一人で買い物を済ませた。
スーパーを出てからレンタルビデオ屋に寄る。
お目当てのDVDを借りて店を出た。
そろそろ孝明は部屋に着いているかな、なんて思いながら浮かれて歩いていると、視線の先に見覚えのある車。
孝明の車が視界に飛び込んできた。

孝明の会社からマンションに向う道ではない場所。
そこは見覚えのある場所。
千尋さんの店の前だった。
心臓が跳ね上がるように音を立てる。息苦しさを感じながら、ゆっくりと近付いた。
周囲は夕暮れ時を過ぎ、遠くの空に夕焼けの名残がかすかに見える程度で、辺りは暗さに包まれている。
そんな中、店先に停車された車の横に立つ、千尋さんと孝明の姿を見付ける。息が止まるような気がした。

笑顔で話す2人の姿を、少し離れた場所から見ていた。
「明日にはまた中国かー」
「次はいつ帰って来れるかな」
そんな何気ない会話を笑顔でしている2人は、ごく自然でまるで恋人同士のようだった。
「じゃあ、俺そろそろ行くかな」
時計に目を向けた孝明。千尋さんは頷きながらも、孝明の手を取った。
「たかちゃんありがとう。私、たかちゃんが居てくれるなら、この先も笑顔で生きていける」
「俺は変わらないから。例え何があってもヒロはヒロだから」
運転席のドアを開いて乗り込もうとした孝明の背中に、千尋さんが抱き付いた。
「ありがとう。たかちゃん」
涙を流す千尋さんを、孝明が抱き寄せる姿を見て目の前が真っ白になる。

その先を見ている事が出来なかった。
今、自分の目の前で繰り広げられていた場面が、夢なんじゃないか、見間違いじゃないか、なんて思う自分さえいる。
それでも足は孝明のマンションに向いていて、マンションの前に着いた時、駐車場に停められている孝明の車に近寄る。
エンジンを切ってから時間がたっていないのか、時折小さな音を立てている。
呆然としたままエレベーターに乗り、孝明の部屋のドアを開けた。


「おかえり。俺も今帰ってきたとこだよ」
リビングから玄関まで出てきた孝明の、いつもと変わらない笑顔。
やっぱりさっきのは孝明じゃないのかも知れない、そんな都合の良い言い訳が顔を出しそうになる。 けれど目に飛び込んできたのは、さっき見た千尋さんと一緒に居た孝明と全く同じスーツで。
現実と非現実が入り混じる複雑な状況に、意識が遠のきそうになる。
これって…世に言う『浮気』なのかな。
千尋さんの宣戦布告が形になったのかな。

「一緒にご飯作ろう」
優しい笑顔に頷くしか出来ないでいた。
2人並んでご飯の準備をしながらも、楽しいと感じられる訳もなくて。頭の中を巡るのはさっきのシーン。
どんな会話をしたのかも覚えていない。料理をしながら何度か言葉を交わした気がするけれど、頭の中には入ってこなかった。

「美味しいよ」
テーブルを挟んだ先で優しく微笑む顔。私には味なんて分からないまま。
「そう言ってもらえると嬉しい」
そんな答えを返しながら、心の奥が苦しくなる。涙が零れてきそうになる。
必死で堪えていた。
苦しいことに。
悔しい気持ちに。
心押し潰してしまいそうな切なさに。


さっき見た場面について聞けないままでいた。
食後にDVDを見ながら、聞くタイミングを探しているばかりで、内容の大半は頭に入らないまま。
ヒロインの女性が彼氏と、色気のある上司の間で心揺れ動く―――― そんな内容の映画。まるでつい最近までの私と似ている、なんて思った瞬間、孝明が口を開いた。
「あのさ優は…志島さんの事、どう思ってるの?」
孝明の口から出た志島さん≠フ名前。驚いて孝明の顔を見ると、真面目な視線が私を捕らえていた。
「なんで…志島さんの事聞くの?」
「優と志島さんが…惹かれ合っているんじゃないかって教えてくれた人が居て。俺バカだからストレートに聞くしか出来ないから。 優の気持ちが知りたいんだ」
真剣な眼差しが私を捕らえて放さない。
志島さんと私の事を知っているのなんて、夏樹と千尋さんくらいしかいない。 孝明は今日、千尋さんと会ってその事を聞いたのだろう。そして、どんな会話があって、どんな経緯かは分からないけれど抱き合ってて。
今までの男と一緒なんだ。
婚約者が居ながら私と付き合っていた勝博。
私が居ながら他の女と付き合っていた幸治。
孝明も、そんな2人と一緒で。彼女が居ても他の女と――――そんな人間なんだ。

「じゃあ、私にも聞かせて。孝明は千尋さんの事をどう思ってる?」
私の質問に一瞬驚いた顔を見せた。けれど動じる事なく、すぐに言葉を発する。
「俺は…俺は優しか見てない。優が一番大切で、優しか見えない。ヒロの事はもうどうとも想っていないよ。優は?」
「私、確かに志島さんに惹かれた。そんな瞬間がなかったとは言い切れない。だけどそれは寂しかったから。孝明が傍に居なくて寂しかったから。 今はちゃんと言えるよ、志島さんを好きになる事なんてないって。真っ直ぐ孝明だけ見てる」
そこまで言うと言葉に詰まった。
堪えていた涙が一気に溢れた。溢れて溢れて止まらない。
真っ直ぐ見ているのに、孝明には真っ直ぐに見てもらえないのかな。そう思うだけで苦しくなる。


「分かった。ごめん。俺、優の言葉信じる。優の涙を信じる」
優しい言葉で抱き寄せようとしてくれた腕を振り払っていた。
「触らないで。孝明は私じゃなくて千尋さんが良いんでしょ?」
「そんな事ないよ」
「嘘よ。そんなの嘘」
自分の声が悲鳴に近いようで、より一層みじめになる。
「見たもん。今日、2人が一緒に居るの見たもん。千尋さん、孝明の事が好きだって前に言ってた。想いを伝えるって私に言ってた。 その答えが…彼女を抱き締める事だったんでしょ?」
「違う。あれは…」
孝明が言葉に詰まった。何を言おうかと悩んでいるようだった。
「違うって言うなら、どうして彼女を抱き締める必要があったのかを教えて」
「それは…」
歯を喰いしばって下を向いている姿を見て、答えに困っているのが伝わってきた。それが全ての答えのように思えた。


「無理しないで。孝明は孝明の好きな人と幸せになってよ」
「待って。違うんだって」
立ち上がった私の腕を掴む。
必死で私を引き止める孝明に、もう一度聞いた。
「違うって言うなら、どうして彼女を抱き締めたのかを教えて」
「それは…」
やっぱり孝明は答えられなかった。
「もう良いよ」
答えに詰まった孝明を跳ね除けて部屋を飛び出した。

何度も鳴る携帯。孝明からだった。
携帯に出ないまま家に向かう。
歩いたまま、何度も込み上げてくる涙を拭う。すれ違う人も少ない夜の道。空しくて苦しくて、切なくて。人の居ない歩道橋で声を上げて泣いた。
家の前に着くと、孝明の車が停まっていた。
私の姿を見付けると、孝明は安心した様子で駆け寄って来る。
「良かった…捜したんだ」
そんな孝明の優しさが、切れ味の悪いナイフで切り付けられているかのように鈍い痛みとなる。
「これ返す」
孝明の左腕を掴んで掌に乗せたのは、マンションの鍵。目を見る事も出来ないくらいに苦しい。
「ちょっと待ってよ」
そう言って私の腕を掴んだ孝明。泣き腫らした目で、強がりな私が言えた一言は、多分最低な言葉。
「ごめん、近所迷惑になるから帰って」


孝明の手を振り払い、振り返らずに家に入った。
自分の部屋に入って、電気も点けないままベットに寝転ぶ。
溢れる涙を拭いもせずに泣いた。
しばらく泣いてから、家の前から聞こえるエンジン音。慌てて窓の外に目を向けると、孝明の車がまだあった。10分以上も彼は待っていた。
けれどエンジン音はそのまま小さくなって、遠く遠くなっていく。
その後、携帯が鳴る事もないまま朝を迎えた。

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