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最初の別れ □■
それから3ヶ月。
ありとあらゆる教育を受ける。テーブルマナーに始まり、会話テクニックや知識、そして高級ブランド品を目で分かるようにと、
目利きに近い事まで。それまでの生活の中で知り得なかった事の数々を学んだ日々。
そして、女に愛されるために必要な術の全てを千佳から学んだ。キスの仕方から始まる、全ての恋愛プロセスまでも。
千佳自身、男性ターゲットを落とすための実行役として活動している人間。恋愛テクニックに関しては本当に素晴らしい。
千佳の言動は、何度も『俺を愛しているのかも知れない』と錯覚してしまいそうになる。
その眩暈がする程の優しさに、深い愛に埋もれてしまいたくなる事が何度となくあった。見せ掛けだけの愛だと知りながらも。
今まで気にも留めなかった会話の仕方一つで、人の心を掴めるようになる事も、相手の仕草を見る事で、相手の気持ちが多少なり把握出来る事も学んだ。
心理学的な要素を取り入れながらの会話テクニックから繰り広げられる恋愛。
そんなもので何が出来るのか―――。最初はそう思っていたけれど、実際に学んだ事の数々を実生活に取り入れてみると、相手の腕の組み方や足の向き、
会話をする時の顔の向け方や姿勢、そんな何気ない行動の一つひとつに感情が生きた状態で表れる事を知る。
「将哉、こうやってターゲットに擬似恋愛をさせていくのよ」
唇が触れ合うかどうかの距離で囁かれる言葉。それは、目の前にある優しい表情も、甘い時間にも、一片の愛さえない幻想なのだと言い放たれているのと同じ状況。
それでも吸い込まれてしまいそうになるくらい、目の前にあるゆるやかな時間に身を委ねて溺れてしまいたくなる。
「もっと優しくしなくちゃ。荒々しさが欲しいのは最初だけよ。付き合いが始まれば荒々しさよりも時間を掛けて愛される、そんな優しさが欲しくなる。
それが女って生き物なのよ」
髪を撫でる俺にむけられた言葉。腕の中にいる千佳の言葉に従う日々。それが幸か不幸かなんて考える事もなくなっていた。
本田千佳という名前が、本当の名前かどうかも知らないままに過ぎていく時間。それでも、千佳と言う人間がある種の支えになっていた事は、
隠しようのない事実。
「そろそろ将哉も独り立ちの時期かしらね」
千佳は呟くように言いながら、俺が吸っていたタバコをさり気なく取り上げ、灰皿に押し当てた。
「独り立ち、か…」
不安だった。今まで沢山の事を教えられた時間。心の支えだったのは、同じような境遇の千佳が居た事。
「将哉、タバコはやめた方が良いわ。将哉にタバコは似合わない」
サイドテーブルに置かれたタバコを、優しく微笑んで取る。
そして、ベットサイドにあるゴミ箱に静かに入れる。そんな行動までが美しい映像のように思えてしまう程に、千佳の仕草は可憐で華やかだ。
俺の不安な気持ちなんて、手に取るように察しが付いているはずなのに。その不安には触れようとしない。これもある種の駆け引きであるのは十分に分かっている。
けれど、それでも心をぎゅっと掴まれている気分になる。
必要以上に優しくし過ぎずに、ある一定の距離を保つ。
たったそれだけなのに、こちらから近寄りたくなる。それは千佳が作り出すターゲットに踏み込ませるための手はずだと、頭では理解出来ているのに…。
一定の間を置き、今まで何も話さなかった自分の事について、まるで独り言のように話し始めた。
「将哉は救われている。会長のお気に入りとしてこの世界に足を踏み入れた人間だから。私とは違うわ。
私は人に対する憎しみしか持ち合わせないでこの世界に入ったの。昔付き合っていた男がダメな人間でね。
2年付き合っている間に、名義貸しで借金が500万も出来ていた。そして元彼は他の女の元に行ったわ。
まだ22だった私の手元に残ったのは大きな傷と借金だけ。何とか元彼の居場所を見つけ出したくて調査を依頼しようと
訪れた調査会社で、たまたま会社の視察に来ていた会長と出会ったの」
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過去をなぞるように、記憶を辿りながら話す。それが何年前の出来事で、現在の年齢も知らない彼女の、
過去の話をただ聞いていた。
千佳は真直に拾われたと言う。元彼を見つけ出したい、見つけ出して復讐をしたいと考えていた心を真直に見透かされ、
そんな事をしても幸せになんてなれないと諭されたと言う。
そして千佳も俺同様に、真直に喰い付いたらしい。『あなたに何が分かるの?私の苦しさが分かる訳ない』と。
真直はその言葉に対して『分かる訳ないだろ? 人の気持ちなんて他人が知れるなんて1%にも満たない。
それでも復讐をして幸せになれる人間なんて僅かだ』と言い放ったらしい。
真直が千佳に対して言いたかったのは、本当に復讐をしたいと思うのであれば、自分で探し出すくらいの強さがなければ、
結局は人に漬け込まれて足元をすくわれると言う事だと思った。
きっと、俺にも同じ事を言いたかったのかも知れない。
人に貶められて死にたいと願うくらいなら、強く生きる勝ち組≠フ部類に入って来いと言いたかったのかも知れない。
命さえ捨てようと思うくらいであれば、きっと全てを変えて行ける。そのためのプロセスを与えてやると、言いたかったように
思えて仕方がなかった。
「お互い実行役同士だから顔を合わせる事なんて、きっとこの先ない。将哉に会えて良かった。将哉のおかげで昔の自分自身を
少しだけ取り戻す事が出来た気がするわ」
千佳は服を着ながら、少し寂しそうな、普段見せないような笑顔を向けた。
彼女はきっと知っているのだろう。今夜が最後だと。俺と千佳にとっての教育≠ニいう時間に終止符が打たれる事を。
いつも美しくて、仕草の一つひとつに清楚さと可憐さを持ち合わせ、完璧に見える千佳の、実行役としてではない普通過ぎる表情が胸に焼きつく。
これが、非現実的世界に足を踏み入れた俺の、最初の悲しい別れだった。
これ以上悲しい別れなんてきっとない。その時の俺は純粋にそう思っていた。
この別れがあまりに綺麗だったから。お互い、人に貶められて足を踏み入れた世界に戸惑いを感じ、
擬似恋愛を通じて心が重なりあっていると錯覚していたのだと知るのは、まだずっと先の事。
人を想い、心が焦がれていくという気持ちをまだ経験した事もないガキだった俺の、
一日千秋の想いを抱く扉がゆっくりと目の前に現れたのだと知るのは、この時から数年の時間が経ってから。
そして、千佳との最後の夜から数日。別れさせ屋の実行役として動き出した俺。
一日が千年にさえ感じてしまう程、恋焦がれ、苦しみもがくその時が、刻一刻と迫っている事には、まだ気付いていなかった。