― 牧山優、負け組にむかって ― 

 

 

いくら泣いても、願っても、人気ドラマのようなミラクルな出来事が目の前に降ってくるなんて事はない。会いたいと願えば、翌日には王子様のように参上してくれる――――そんな奇跡は起こらない。
朝起きてドレッサーの鏡の中にいる私は強烈だった。
目が真っ赤で腫れている。明らかに泣き腫らしました、と分かる状態。
蒸しタオルをあてて目を閉じると、どうしてもまた孝明の顔が浮かんできて、喉の奥が熱くなる。

暴走を始めたのに、行き先のない感情が自分の心を潰していくようで、苦しく、切ない。
それでも目の前にある現実は、いつもと変わらない。 自分とは身近と思えないような事故や事件のニュースがTVから流れ、母が無言の『嫁に行けアピール』をするかのように、キッチンのテーブルの上には見合い写真が置かれている。
どれもこれも飽き飽きするような現実。それでも自分の現実で、変えようのないたった一つの真実。

午後出勤になって会社に着く頃には気分的にも少しは晴れていた。
打ち込める何かがあれば気持ちは前向きになれる。自分が仕事を好きになるだなんて思ってもいなかったけれど。今では仕事を楽しんで出来るようになれた。
社内は午前中の捜査の関係で、まだ一部立ち入れない箇所もあるけれど、納品ラッシュでバタバタと忙しなく動く皆の活気が元気をくれた。

「優ちゃん、午前中に YOU SELECT の売り場見て来た。若い人が真剣に商品を選んでたわ。皆カゴいっぱいにしてたわ。あのシルバーの絵が入ったマグカップ売り切れていたわよ。近く発注くるんじゃない?」
帰山さんが大きなダンボールを運びながら声を掛けてくれた。YOU SELECT は私が選んで『高く売っても大丈夫』と判断した質・デザインの良い商品。一部の商品は私の提案を工場で形にしてくれている物もある。
「本当ですか?嬉しい。私まだ実際の売り場見た事ないんです。近々行ってみようかな」
「行ったら誇らしい気持ちになれるよ。『この売り場は私の選んだ商品ばかりよ!』ってね」
林さんもにこにこと笑っている。私以外の人は足を運んでいるようだった。それが何だか嬉しくて、それでいて気恥ずかしかったりもする。
最初はただ普通に店に出すつもりだった。 けれど雑貨店側からオリジナルブランドっぽくして欲しいと要望があって、百田さんと志島さんが捻り出したアイデア。 クラフト素材の厚手の紙に、ベニスライトフェースで書かれた文字で作られたタグのおかげで、綺麗で高級感がある商品になった。
仕事があれば、落ち込んでも元気がもらえる。
気持ちを紛らわせてくれる場所、確かな自分の居場所がここにはある。

――――――――――――――――――――――――――――

千尋さんと話をしてから、どんどん日が経つ。
結局、一ヶ月経つのに何も行動出来ないでいる。
日々の忙しさの中で現実に向き合わないままだった。
孝明から連絡がこないのは、孝明が私と別れた事に対して何とも思っていなかったりするのかな、なんて可愛くない事も考えた。
実際…メールすらこないままだった。

「夏樹おめでとう」
「来てくれたの?嬉しい」
病室のベットの上にいる夏樹は、いつもよりもずっと自信溢れる笑顔だ。その腕の中にある小さな存在が夏樹を強くしているのかな。
「生まれたばっかりの赤ちゃんってこんなに小さいんだ。抱っこさせて」
「本当に小さいでしょ」
夏樹にそっと抱かせてもらった赤ちゃんは、クシャクシャな顔で、髪の毛なんてクリクリの細い毛。小さい爪がしっかり生えていて、まつ毛もしっかりある。
そんな当たり前の事が驚きだったし、もう夏樹が親になった事も未だに実感出来なかった。

「小さいのに、ちゃんと心臓が動いてるんだね」
「うん。小さくても一生懸命生きてるんだよ」
一生懸命――――か。きっと今目の前にいるこの子は、素直に自分の感情を出していけるんだろうな。寂しいとか、不安とか。見習いたい、なんて思う。
「夏樹、幸せそう」
「幸せだよ」
にこりと微笑む顔が、本当に幸せなんだと伝わってくる。

いきなり始まった夏樹と健斗くんの恋愛にハラハラした日から1年くらいしか経っていない。その間に電撃入籍して、もう子供が生まれている。 デキちゃっての結婚はいけない、なんて言う人もいるけれど絶対に嘘だ。だってまだ新鮮だもの。
夏樹はまだ健斗くんに恋したままだ。日々、新しく知る、彼の事に一喜一憂している毎日は、鮮度の良い恋愛を楽しんでいるように見える。
同じ一年、私は何をしていたのかな。
夏樹と同じように一気に加速した恋は、もう手元にない。
自分で壊してしまった結果だけれど。孝明が日本に戻ってから今までの1ヶ月ちょっとの時間、彼がどう過しているのかさえも知らない。知っているであろう夏樹も、気を使ってかその話題には触れない。

「そうそう、これお祝いに」
差し出した紙袋にはYOU SELECT≠フ文字が入っている。
「おっ!優の会社の商品じゃない。見て良い?」
「どうぞ」
夏樹は嬉しそうに包装紙を開く。詰め込んだ雑貨の数々。赤ちゃんにと思ってオーガニックコットンのタオルやガーゼを沢山選んだりした。
これから扱う商品も先取りで入れてみた。
「YOU SELECT って凄い人気なんだね。なかなか手に入らない商品もあるみたいじゃん。嬉しいなー。全部使い勝手良さそうだし、質も良くて可愛い。それに、優が頑張った結果の詰め合わせだもんね。ありがとう」
「志島さんには YOU SELECT なんて商品まで作ってもらえて感謝してるんだ。だけどね、リストラされて腐ってた時期に、志島さんを紹介してくれた夏樹に一番感謝してる。 いつか胸張って夏樹に『仕事大好き』って言えるようにこれからも頑張るから」
三十路手前で仕事しか残っていない人間の強がりなんかじゃない。
「うん。優が頑張ってる姿、これからも見せてね」
子供をあやすような笑顔を向けてくれた夏樹。仕事も恋も、夏樹が与えてくれたものは大きい。恋はダメにしちゃったけれど、仕事だけは大切にしていきたい。 それが今の素直な気持ち。


「そろそろ行くね。退院して家に戻ったら家事手伝いに行くから。産後は料理するのも大変だって言うでしょ。ご飯作りに行くね」
「うん。だけど…優のご飯で大丈夫かな?」
「最近は大丈夫よ。きんぴらも作れるようになったんだから」
「あはは。ゆっくりだけど優も頑張ってるんだね」
そう、頑張れるようになった。
女だから。女として生まれたからには、女として最後まで生きる。
千尋さんから学んだ事は大きい。
病室を出て、玄関までの長くない距離、すれ違う女性のほとんどは妊婦さんか産婦さん。皆化粧もまともにしていないどころか、産婦さんなんて髪もボサボサだったりする。 それなのに綺麗に着飾っている私なんかより、ずっとずっと綺麗だった。
幸せそうな笑顔をしていた。



病院を出て歩くと、まだ春になりきれていない冷たい風が頬を撫でる。
暖かい病院の中で見て来た、温かな光景に切なさが込み上げそうになる。私、幸せになれるかな、なんて弱虫が顔を出しそうになる。
幸せは人が与えてくれるもんじゃない、自分で探すものだって分かっているのに、どこかで幸せを願ってしまいたくなる。
「優、待って」
聞き覚えのある、切ない声。
振り返れないでいる私の肩に触れる大きな手。
「今、病院を出たって、夏樹ちゃんが教えてくれて…追いかけて来たんだ」
息を切らしながら話す、懐かしい声。
「な…なんで追い掛けて来るのよ」
「優に会いたかったから」
一気に涙が溢れた。まだ、孝明の顔を見れないでいるのに、耳から入ってくる孝明の声は前と何も変わらないまま。優しくて。 私が言って欲しい言葉を与えてくれる。

「ずっと優に会いたかった。俺、別れたなんて思ってないから。信じてくれなかった事に対して悔しかった。 だから、地に足つけた男になって迎えに行こうって思ってた」
「私、孝明の事信じなかったんだよ。千尋さんと浮気してるって思い込んで…事実を聞き出そうとして。 千尋さんが抱える悩みや現実の重さも考えないで、孝明の全てを知りたいなんて思った…勝手な人間なんだよ」
やっと孝明の顔を見れた。
前よりも伸びた髪は真っ黒になっていて、知り合った頃のような華やかさは影を潜めている。
孝明の腕がのびてきて、私を包み込んだ。
「俺が頼りなかったんだ。ヒロの現実を知って動揺してた部分もあって。頭の中で勝手な事考えてた。優は離れていかないなんて。 大切にしておかないと離れてしまう事に目を向けてなかったんだ。勝手だった。合鍵を返された瞬間にやっと気付いたんだ」
抱き寄せてくれる腕に力がこもる。
「もっと早く…迎えに来てよ。会いたくて、ずっとずっと会いたくて仕方がなかったんだよ」
「優だって会いに来てくれたら良かったのに。会いに行って逃げられたら、って思うと恐かったんだ」
意地を張り合った二人。
孝明の声も涙声になっている事に気付いた。

傷付いていたのは私だけじゃない、そう考えて良いのかな。
泣きたかったのは孝明も一緒だと思って良いのかな。
「俺、次の週末、優の実家に行くつもりだった」
「どうして?」
ゆっくりと離れた体。恐る恐る見た孝明は、晴れやかな、私の大好きな眩しいくらいの笑顔だった。
「明後日、辞令が下るんだ。優と会えない事の辛さ、紛らわせるように仕事に没頭して、仕事して仕事して…他の人より頑張ったって言えるくらい仕事した。 おかげで新しく動く大きなプロジェクトを任せてもらえるようになって。昇進するんだ。立場も前よりずっと安定した今なら、優に胸張って会いに行ける。迎えに行けるって思ったから」
「立場なんてどうでも良いのに」
もう一度孝明に抱きついた。
1年前の私には考えられない言葉。
立場とか安定を望んで生きて来た私。だけど、今はそんなの重要なんかじゃない。好きな人と一緒に歩く人生が、どれだけ幸せな時間をくれるか知ってしまったから。
好きな人の笑顔を見られるだけで、元気いっぱいなれると実感させられてしまったから。
大好きな人となら、数ヶ月間の空白すら埋めてしまえるようなパワーがあるって、今強く実感出来るから。

もう揺らいだりしない。
もう、この手を離さない。
どんな現実が目の前に現れても、2度と逃げ出したりしない。
「本気の恋の続き、もう一度俺と始めない?」
「もう二度と私をはなさないで」
ねえ、孝明。私まだまだ意地っ張りから卒業出来ない。
苦しいくらい嬉しかったの。その一言が。
だけどまだ天邪鬼が簡単に消えていかなくて、素直にそれを伝えられそうにないんだ。
『ありがとう』って素直に言えたら良いのに――――

――――――――――――――――――――――――――――

土曜日の朝、いつもの週末よりも少し早い朝食の準備。
「おはよう。どうしたの、優がこんなに早く起きるなんて」
そろそろ全ての準備が終わる頃、起きて来た母は驚いた顔を見せる。 「別に。たまには良いでしょ」
「優が早起きして朝食作るなんて、季節外れの雪でも降りそうね」
母は眉間にシワを寄せながら、玉子焼きを一口つまんだ。
「やっと上手に玉子焼きが作れるようになったわね。あとは嫁のもらいてがあれば良いんだけど…」
ぶつくさと文句が始まった時、珍しく早起きしてきた父が参上して、母の長く続くお説教から逃れられた。

「なんか、優が早起きして4種類もおかず作るなんて雪でも降りそうだな」
朝食を食べながら父まで不思議そうにしている。
「そう?たまには良いでしょ」
「たまにじゃなくて、いつもならお母さん助かるけど」
チクリと母親の嫌味がささる。
「今日、2人とも出掛ける用事とかある?」
一気に話題を変えた私を見て、2人は不思議そうな顔をする。何もないけど、と口を揃える。
「だったら普段着じゃなくて、少しだけで良いから服装も整えておいてね。じゃあ、片付けはお母さんにお願い」
ぽかん、としている2人をキッチンに残して部屋に戻る。急いで身支度をする。いつもよりしっかりした服を選ぶ。
だけど、あまりに気合が入っているのも…なんか癪だな、なんて思うあたりまだ意地っぱりだったりするのかな。

何度も鏡の前で、髪型や服装をチェックして落ち着かない時間を過した。
8時ぴったり。家のチャイムが鳴る。
階段を駆け下りて、母より先に玄関のドアを開けた。
「いらっしゃい」
「おはよう。ご両親いる?」
スーツを着て現れた孝明を玄関に招き入れる。

玄関に出てきた母は驚いた顔で、居間にいる父の顔を見ている。
「突然すいません。ご挨拶させて頂ければと思い、伺わせて頂きました」
深く頭を下げた孝明を目の前に、2人は本気で言葉を失っている。
当然か。娘は三十路目の前で彼氏に振られたと思っていたんだから。
ううん。ほんの数日前までは、自分だってそう思っていたんだから。



私、牧山優はあと4ヶ月で30代に突入します。
仕事に生きがい持って生きています。
そりゃ…時々、請求書の金額間違えて大変な事になったりするけれど。
下手くそながらも料理が趣味になってきました。
玉子焼きに時々殻が混じるけれど、それはまあご愛嬌。その分、味はしっかりしているので許して下さい。

結婚? 前よりは近くなったけれど、本気の恋が再加熱し始めたばかり。まだ、この先どうなるのかなんて分かりません。
実は彼、来週からまた中国に長期出張。
その前に両親に結婚前提の付き合いの挨拶。
今度は距離に負けないように頑張る。後悔なんてしないために。



素直になるのは難しい。
相手を信じるのは大変な事。
だけど、好きになったり、好きになってもらえたりする事、本当に凄い確率なんだと思う。
だからこそ大切にする努力、怠ってはいけない。

相手に依存しない事。
相手に素直に甘えられる事。
自分を甘やかさない事。
全部難しい事だけれど、絶対に大切な事。

自分の弱さ、強さ、良い面も悪い面も、向き合わないままの幸せなんてない。
そう知る事が出来たから、俗に言われる『負け組』になる事なんて恐くない。
今なら大手を振って『負け組』に入って行ける。

自分に自信を持ち、プライドを持てる生き方が出来る、そんな30代の始まりまであと少し。きっと落ち着いてその時を迎えられる気がする。
幸せな、負け組にむかって――――

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