― 戦争の予感 ― 

 

 

『さすがにお腹も出てきたんだよ。まだまだ大きくなるんだけどさ。体調の変化についていけない』
「今度、夏樹のポッコリお腹を撫でに行くから」
受話器の向こうの夏樹の声はいつも明るい。新婚で、その旦那は結婚早々に出張で日本を離れていると言うのに。
1人じゃない≠ニいう安心感は女を強くするのかな。
そう、夏樹は1人じゃない。2人でもなければ、3人なのだ。しっかりと家庭≠築いている。 旦那である健斗くんと離れていても、お腹の中にある小さな存在を守り、その存在に心を支えてもらっている。
羨ましかった。1人ではないという事実が。
喉から手が出るほど欲しくてたまらない安心感を、夏樹は手に入れている。


散々話をしてから切った電話。
結局は夏樹の浮かれた話で終わってしまった。本当は相談したい事があったのに結局は言い出せなかった。
健斗くんの出張はそろそろ終わる。新婚と言う事もあり2ヶ月で切り上げられる事になっていたから。 そんな状況で夏樹のマシンガントークが止まる訳がない。ただただ圧倒する量とスピードで話された。
志島さんの事を素直に言おうと思っていた。少しずつ惹かれてしまうのだと。
けれど言えなかった。後ろめたさが心を占領しているからもあるし、浮かれた夏樹に圧倒されたからでもある。


こんな時は…久々に麻奈美に相談でもしようかな。
携帯を手に取るとメールが届いている事に気付いた。タイミングが良過ぎる。麻奈美からのメール。
【妊娠しました。つわりがあって大変だし、不安がいっぱいだよ】
妊娠ね…。夏樹も麻奈美も、来年には母になるって言うのに。
私は2人と同い年なのに、浮気心が芽生えてどうしようなんて悩んでいる。この差…雲泥の差とはまさにこの事。

幸せの度合いの違いは何が原因なの? 何度も心の中で湧き上がる疑問。答えなんて誰も教えてくれはしない。
タイミング?
人を見る目?
はたまた神様の機嫌次第のさじ加減?
いや、きっと違う。
自分自身の生き方や未来を描けているかどうかの問題。 夏樹も麻奈美も、恋人との関係に未来を描く事が出来たから、結婚という人生の転機に飛び込んで行けた。

私は恋人との関係に未来を描くとかの問題以前に、自分の人生の先が全く見えない。自分の未来を描けない。
働き続けてキャリア志向、なんて性に合わない。
結婚して専業主婦、きっと飽きるのが目に見えている。
何がしたい? 何が出来る?
自分自身への問いかけに対しての答えを見付けられないのだから、幸せなんて掴める訳がない。
自分≠ニいうものを理解していない人間に自分にとっての幸せ≠フ定義が言える訳がない。
何が自分にとっての幸せなのかさえ、見えていないのだから。

他の人と何が違って幸せになれないのか、ばかりを考えていた。
夏樹のように明るい性格になれば違うのか。
幸せにしてくれる彼氏がいれば違うのか。
出会いの多い職場でそれなりに働いていれば誰かが見付けてくれる。
適齢期には適齢期の男が現れるから大丈夫。
そんな考えで今まで生きていた。それは自分の人生の先々を他人任せにして生きていただけの事。

社交的になれば人が集まってきて満たしてくれる。
永遠の幸せを与えてくれる人が欲しい。
誰かがいつか私を見付けてくれる。
歳相応に誰かが結婚というチャンスを運んでくれる。
そんな事を考え、自分自信にも自分の生き方にも向き合わないで過してきた今までの人生。
それで幸せなんて掴める訳ない。
気付くキッカケになったのは皮肉にも、元彼に捨てられて、リストラされて、親にも見捨てられそうになってから。
甘ったれな私が幸せになるまでには、きっとまだまだ試練が沢山あるに違いない。 今まで楽をした分、神様はそう簡単に幸せを与えてはくれない…気がする。

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結局、自分の中にある浮気心≠ェどうにかなるでもないまま日が過ぎる。
何となく一線を越える発言・行動をしてしまうのが恐くて、残業になっても志島さんと2人にならないようにする毎日。
あの笑顔を向けられるのが恐い。あの笑顔にこれ以上惹かれるのが恐い。
「優ちゃん最近元気ないわね」
「そうですか?」
事務所に入ってきた林さんは心配そうな顔をしている。
「最近、志島くんも元気ないし。何かあった?2人とも」
志島さんは視線を一度上げ、林さん・私をちらりと見てすぐに視線をパソコンに戻した。
「何かって?仕事の山々に囲まれ、毎日の円の流れを把握して経理の山々を潰す。 輸入されてくる雑貨の納品を考える。それ以外に元気をそいでくれる原因あるかな?」
「それだけかな?そんな顔してる志島くん久々に見たから。また前のように――――」
「勝手な事言わないで下さい。俺の何が分かるって言うんですか? 今、目の前にある俺の問題全部を林さんに言わないといけないんですか?」
志島さんが声を荒げた。普段からは想像もつかないくらいの語気の強さだった。
林さんは怒った様子ではないけれど、踏み込んではいけない部分に触れようとして咎められた気まずさからか、 無言のまま事務所を後にした。残された私と志島さん。無言の空間が重苦しい。掛ける言葉さえも見付けられない現実。


しばらく続いた無言は重い空間を作り出していた。
「俺、夏樹ちゃんに相談したんだ」
「夏樹にですか?」
「うん。優ちゃん見てるとハラハラしたり、笑えたりする毎日が楽し過ぎて、優ちゃんが傍に居てくれる事―――― この会社にずっと居てくれたら良いって思うようになったって話した」
あの日、千尋さんの店に行った日に言われた言葉。
けれど随分と日が経っているし、それから志島さんがそんな事を態度に出す事もなかった。 だから本当に酔った勢いで出た言葉だったのかも知れない、と思う事もあった。
夏樹がどんな返事をしたのか――――気になるけれど聞き返せないでいた。
「そしたら凄い勢いで怒鳴られた。『寂しいって気持ちから逃げて私の大切な親友に寄りかからないで!』だって。 寂しいって感情は魔の生き物だって言ってた。寂しさはどんな大切なものさえも見失う魔力があるんだって。 その魔力に負けない強さを持たなきゃ幸せなんて掴めないって言われちゃった」
「寂しい気持ちから逃げて…か。夏樹らしい言葉」
だけどそれは間違いではない。
私も志島さんも抱えているものは孤独感。恋人と離れて暮らす事への不安だ。
寂しいから、不安だから。それが理由で惹かれるのかはまだ分からない。 それでもお互いに惹かれ合う事は、きっと誰も望まない結果。それだけはよく分かっている。

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『もしもし』
「元気?どうしたの電話なんて珍しい」
受話器の向こうから聞こえる声は優しい孝明の声。心の奥がふわりと温かくなる。
『2週間後、日本に一回帰れるんだ。って言っても3泊なんだけど。一番に優に教えたくて』
「帰って来れるの?嬉しい」
『うん。お願いがあって。マンションの掃除に一回だけで良いから行っておいて欲しいんだ』
無意識にテーブルの上に置かれたキーケースに視線が向く。
孝明のマンションのカギがごく当たり前のように、私の家のカギや会社のカギと共に並んでいる。
「うん。行って掃除しておく」
『ありがとう。日本に居る間、優と一緒に入れると思うとすごく嬉しい』
孝明は魔法のように温かい言葉だけ与えて電話を切った。

孝明が日本を離れてから今まで、孝明の部屋に行った事はない。
主の居ない部屋に入る後ろめたさもあったし、仕事が忙しくてなかなか行けなかった。
週末に行こう。綺麗に掃除して主を迎え入れてあげよう。


孝明が帰って来ると分かると、何だか毎日がそわそわする。
朝も普段は目覚ましが鳴ってもなかなか布団から起きられないのに、今朝は目覚ましが鳴ると同時にすんなり起きれた。
化粧をするのも楽しく感じたし、お弁当を作るのも気合が入る。
もちろん料理はまだ上手とは言えないし、家事の手際も良いとは言えない。それでも2ヶ月の間に随分マシになった。
孝明が日本に居られる間、せめて一度は手料理をご馳走したい。そして美味しいと言ってもらいたい。 たったその事だけで元気になれる気がした。今までになくそわそわした気持ちになる自分がいる。
楽しみにしていた映画を見れる時のような、待ち焦がれた何かが目前にあるような感覚が体を包む。

そんな浮かれた私を見て苛立つ人間が居るとか考えていなかった。
そう、ここで気付いたの。愛は戦争なんだと。

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