― 目の前の現実 ― 

 

 

「世間って狭いね」
帰り道、呟くように夏樹が言った。
「そうだね。世の中って複雑に絡み合ってるんだね」
自分自身に言い聞かせるように呟きながら、溜息をついていた。

孝明の好きだった千尋さん。
千尋さんが好きな志島さん。
志島さんが愛した人は、現在服役中。
そしてその彼女と夏樹は友達で。
私と夏樹も腐れ縁に近い友達。
一つひとつの関係はそれぞれに隔離されているのに、どこかを手繰れば繋がっているなんて本当に不思議。

「でも友也くんも言ってたじゃん。坂田くんは優と付き合ってからは一筋だって」
「うん。その言葉信じないとだね」
思い込んでおきたい。
もう孝明の心の中に千尋さんを想う気持ちはなくて、私だけを真っ直ぐに見てくれるのだと。 孝明は私を手放さない。そう思い込んでおきたい。


結局、孝明に千尋さんの事は聞けないままだった。
日本を離れる前に夜中に過去の恋愛について話してくれた。だからそれ以上聞くべきではないように思えたし、切り出し方が分からなかったから。
【日本食が恋しい。優の笑顔を見たい】
毎日のように届くメール。
【日本に戻ったら美味しいご飯作ってあげるからね。体壊さないようにしてね】
心の中で暴走する気持ちを悟られないように、優しい言葉を並べて誤魔化す。 手料理なんて自信もないけれど、メールの中では奇麗事を並べて女の子ぶっていられる。
一応料理は習っていたから、パンやケーキを焼いたり、ロブスター作ったり、パスタは何種類も作れるわ。 和食は作れないし、計量スプーンとカップがなければ味付けも出来ないけれど。残り物で何かを作るなんて…夢のまた夢だけれど。
帰国するまでの間に頑張れば覚えられるに決まっている。

幸いにも練習する時間だけはたっぷりあるわけで。
今だって母親に魚のおろしかたを教わっている最中。
「ほら、こうやって皮を取るのよ」
すーっと母の手が動くと、綺麗に薄く皮だけがまな板の上に残っていた。 なんだ簡単じゃん。包丁をすーっと引くだけで良いんだし。 そんな甘い考えで、さっき見た母の手の動きを真似て動かしてみる。
「あれ…おかしいな」
包丁は真っ直ぐ動くどころの問題じゃない。皮だって薄くとかの次元ではなくて、皮には身がたっぷりと残った状態になっている。
悪戦苦闘しながら包丁が通り終わる頃には、指で身を押さえていた箇所はくっきりと指の跡が残っている。 皮を見れば悲惨さは明らかだ。身がかなり残っているうえに、途中で一度切れているのも誤魔化しはきかない。

夕食の時、食卓テーブルの上に並んだ刺身の皿を見て、父は沈痛な面持ちをしていた。
「はは…俺の釣ってきた魚、優の手で天国に送られたな」
「天国?冗談でしょ。地獄に突き落とされたのよ」
母の言葉は本気だ。せっかく良い魚があって、仮にも1年以上も料理教室に通った娘がいて、それなのに刺身になった魚は酷い状態なのだから。
薄いもの。分厚いもの。ブロック状になっている、とても刺身とは言いがたい切れ端≠ェ皿の上にあるのだから。
「初めてだから…次回はもっと上手く出来るようにするから」
「そうだな。また今度釣った時は綺麗に頼むな」
私と父の会話を横目に母は深い溜息をついた。
「優、今の時代は安く刺身が買えるから。それで良いんじゃない?魚をおろす事もそんなにないだろうし。店には切り身が売ってるわ」
不機嫌な母の言葉が食卓から団欒≠ニいう言葉をかき消す。 何も言えなくて、居た堪れない気持ちをご飯と一緒にかき込んだ。

毎月1万円も出して通った料理教室。
それなのに実用的なメニューは覚えていない。
母が不機嫌になるのも頷ける。だからこそ下手に口を返したり出来ないでいた。
29才にもなって、土の中の野菜は水から煮る、土よりも上になる野菜は湯で煮る、なんて母親に教えてもらっている有様。
悔しいから夏樹にメールをしてみた。
【野菜って水から煮るのか、湯から煮るのかは、どうやって判断するのか知ってる?】
夏樹は親元を離れるのが早かった。とは言え、仕事が大好きな人間だから。 自炊しているとはいえ、明確な線引きは出来ないだろうなんて思っていた。
【根菜が水から。それ以外はお湯で煮るんだよ。こんな常識的な事、もしかして…知らなかったとか言わないよね?】
もしかして、じゃない。素で知らなかったの。携帯を手にしたまま軽い自己嫌悪に包み込まれる。


恥ずかしい話、洗濯も三十路を目の前にしてから自分でやるようになった。 前は母に下着を洗ってもらう事にさえ、気に掛ける事なんて何もなかった。
『まさか…親に下着を洗ってもらうなんて恥ずかしい事はしてないよね?』
夏樹に聞かれてから初めて考えた。自分の下着を、自分以外の人間に洗ってもらう事が恥ずかしいだなんて。
最初は『そんな感覚持つなんて過敏な考え方』と思っていたけれど、周囲の意見は全てが夏樹と同じだった。 恥ずかしいと思わなかった事自体がどうかしていると知った。
家族だから、なんて思っていたのはただの甘え。完全に常識が欠如していただけの事。

それでも今では自分でやるようになったのだから!と、得意になって洗濯機のフタを開けた。
そこには無惨にも、薄いピンク色になった真っ白だったはずのブラウス≠ェ顔を覗かせている。
「何これ」
唖然としている私の背後には、呆れた様子の母親が立っていた。
「その新品の赤い服と分けて洗わなかったからだよ」
母の指差す先には、この前買ったばかりの赤いTシャツがあった。 白い服と色物は分けて洗う。そんな当たり前の事さえ出来ていないなんて。
失敗から学ぶ≠ネんて言葉もあるけれど、それってある程度若いうちじゃないと通じない言葉にさえ思える。 三十路目前、29才なりたての私は何をやっても中途半端なデキない女≠フ代表選手。

掃除もなっていない。お風呂掃除を1週間担当したら、浴室にカビが生えた。
頑張って和食を作ってみたら、食卓が重苦しい空気に包まれて無言になった。
洗濯は、何度も洗剤や柔軟材を入れ忘れた。洗濯をしていた事を忘れ、洗濯層に翌日まで放置した事も数え切れない。
食器を洗えば割れる・欠ける≠ヘよくあるし、洗い足りない・すすぎ足りない≠烽謔ュある。
未だに目覚ましだけではなかなか起きれなくて、母親が声を掛けてくれなければ起きられない日もよくある。
何をしても中途半端。だからと言って何もしなければ上達もない。
もっと早くから色々とやっておけば良かった、なんて後悔を何度もしたところで、時間が戻る事なんて絶対にない。
どれだけ今までの29年という時間を、自分の都合の良さだけを優先して生きていたのかが分かる。



仕事も今まで本気でやっていなかったツケが回ってきた感じかな。 周りの人が知っているような事を知らない、なんて事はざらにある。
そう、来客へのお茶の出し方さえ正しい作法は知らないし、コピー機の使い方もソート毎の出力が可能だと初めて知った。
対社外用のメールの書き方も、未だに本を片手に打っている状態。
唯一誰にも負けないのは…領収証などにナンバリングを回転印で押す速度のみ。 それだって…ナンバリングの入った領収証に今月から切り替えられたので、ご披露する機会はもうない。
ただ、仕事で数字のミスだけは辛うじてない。それだけが救い。

そして、職場には前とは違って挨拶を返してくれない人はもう居ない。
皆が笑顔で挨拶を交わし、私は『優ちゃん』と呼ばれて可愛がってもらえている。 多少のドジと無鉄砲さは笑顔で乗り切れるくらい、皆の温かい理解に包まれている。
「全く優ちゃんは何やらせても一回はドジするんだから」
倉庫のシャターを閉めようとして、運悪く林さんを挟んだのはわざとではない。
「本当にすいません」
「ケガしてないから良いけど。人をケガさせてからじゃ遅いから気を付けるのよ」
呆れ顔の林さんに何度も頭を下げて事務所に戻る。落ち込める要素は数限りない。 落ち込まないでいられる要素の方が少ないようにさえ思える。

「優ちゃんまたドジしちゃった?」
事務所で帳簿と睨めっこしていた志島さんが顔を上げた。
「はい…林さんをシャッターに挟みました」
「はは。林さんスリムになるかもね」
軽く笑い飛ばしてくれるのは有難かった。
「優ちゃんはドジだけど、いつも頑張ろうって姿勢が見えるから良いよね」
「そうですか?何やってもダメで。落ち込んでばかりですよ」
そんな会話の最中にぶつかり合った視線。
優しい瞳に捕らえられた。どんな失敗も許してくれそうな、優しい優しい目。
一瞬、時間が止まったような感覚が体を支配する。
あれ?何だろう。この目から逃げられない。
寂しい者の感情の揺れ動きなんて知らなかった私の、恋愛失敗への近道はきっとここだった。 無防備に飛び込んだと思うの。

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