― 誕生日、離ればなれ ― 

 

 

昨日の木曜から林さんが復帰してくれた事もあり、夜も前よりもずっと早い時間に帰宅出来るようになった。
けれど、早く帰れば帰ったで母親の妄想トークが炸裂する。
「彼、海外に出張から戻って来たら『結婚させて下さい』って挨拶に来るのかしら?」
私よりも浮かれたその姿、言葉を聞くだけで疲れが増す。
返事もしないでご飯を食べ続ける私の事なんて気にせずに、ずっと『娘の結婚』について熱く語る。
どうもこうも、まだ付き合って日も浅いから先なんて望む状況じゃないのに。
心の中で母の言葉に突っ込みを入れながら軽く受け流す。
まあ、母が舞い上がるのも仕方がないのかな。
結婚出来そうもない生活感の全くなかった私が、幸治との別れから少しずつ、本当に僅かながら成長している…と思いたい。


来週の月曜、私の誕生日に中国に発つ事もあって、孝明は毎日仕事が終わってから会いに来てくれている。
夜遅くまで仕事している事もあって、22時過ぎに来て車の中で30分程話をして帰って行く。
それが4日も続いているのだから母が舞い上がってしまうのも頷ける。
金曜の夜22時半、孝明が迎えに来た。助手席に乗り込むと優しい笑顔が迎えてくれる。
そのまま孝明の部屋へと向う。
出張に出る前の週末は休みを取れたと言う事でゆっくり過す予定。

2人で流行の映画のDVDを観たり、お酒を飲んだり。
土曜は朝から出かけてショッピングとレストランで食事して、夜は海岸沿いをドライブして夜景の見える小高い山に行って。 そんな甘いあまい時間に心がとけていくような感覚を抱く。
2人寄り添って眠る時間に、ありもしない永遠を望んでみたくなる。
触れる肌の温もりに、独占欲を抱きたくなる。
聞こえる吐息が居心地の良さを与えてくれる。
こんな時間がずっと続けば良いと願うのに、離れ離れになる時間は目の前まできている。
愛しい人と一緒に居る事で安らぐ気持ちと同時に、心を掻き毟るような痛みが胸をざわつかせる。
同じ時間を過す事がこんなに嬉しいのに同時に苦しい。
相反する2つの気持ちを抱きながら過す時間が与えてくれる、たった一つの感情。 誰かを想い、愛しく大切にしたいと願う、愛情と言う大切なもの。


日曜、28才最後の日。
空は晴れやかで、快晴という言葉がまさにピッタリ。
「優、出かけよう」
着替えを済ませた孝明が、後ろから抱き付いてきた。
首筋をかすめる吐息に背筋が波立つような気がする。
「どこ行くの?」
「内緒。早く準備して」
早く準備なんて言いながら、グロスを塗ろうとする私の手を止める。
「塗る前に、ちょっとだけ」
キスでグロスがつくのを嫌う孝明は、まだ何もつけていない唇に優しく触れる。 そんな孝明の表情や、長くて綺麗な指が唇をなぞるだけで胸がギュっと締め付けられる。
何度キスをしても新鮮味が消えない。
何度キスしても幸せが薄れる気がしない。
大好きと何度言っても足りない程に惹かれ、心を占領されていく。

街を歩く時、繋いだ手はいつの間にか指を絡める。
時々視線を合わせ、会話しながら歩く街はいつもよりキラキラして見えた。 何気なく目に入る景色全てが、綺麗な写真集の一場面のようにさえ思える。
恋って単純だと思っていた、今までの私は人生の大半を損して生きていたのかな。

一軒の小さな店の前に着く。
ガラス張りの高級感あふれるジュエリーショップ。
「ちょっと、どうしたの?」
「優のバースディプレゼントを買うの」
繋いだ手をぐいっと引かれ、重そうなドアを開けて店に入る。 黒いスーツを着た女性が笑顔で近寄って来て、笑顔で孝明に話し掛けている様子を呆然と眺めていた。
「どうぞこちらに」
案内されたのはガラスのショーケースのカウンターの前。
椅子に座らされて唖然としている自分は、借りてきた猫のような状態。すごく緊張した。
「指のサイズ測ってくれるって」
「緊張する」
少し震える手を差し出して、店員さんにサイズを計測してもらう。
こんな風に宝石を買ってもらう事なんて今までなかった。少しリーズナブルなお店でならあるけれど、こんなに本格的なお店は初めて。

「こちらのサイズになります」
目の前に出された指輪は、少し太めのデザインにクロスの穴が空いている。そこにダイヤが5つ光る女性的過ぎない印象のもの。
「優に似合うね」
「そう?嬉しい」
手を上にかざして眺めている私を見て、孝明は優しく微笑む。
「そんなに嬉しそうな顔してくれると、時間を掛けて選んだかいがあるよ」
「本当に良かったですね。2週間ずっとお昼休みに選びに来て頂いていたんですよ」
店員さんは笑顔で言うと、孝明が少し照れたような顔をした。 孝明でもこんな風に照れたりするんだ、なんて思うと妙に嬉しい。
繋いだ手にある小さな存在。プラチナのリング。大きさと反比例した存在感は、私の気持ちに似ている。

「指輪、右手の薬指にしててよ」
そう、右手の薬指に合わせたサイズ。左手じゃないの?と思ったのはただの贅沢だよね…。
「うん。大切にするね」
「俺が戻って来たら、今度は左手の薬指に合う指輪を買いに行こう」
歩きながら、視線を前に向けたままの孝明の言葉。
「その言葉、楽しみにしちゃうよ?」
その言葉の真意を聞けないまま誤魔化した。
左手の薬指≠アれがどんなに大きな意味を持つ言葉なのか、29才になる私にとって期待するものの大きさがどれ程なのか―――
ねえ、気付いてるの?ただの口約束だけで済ませて欲しくなんてない、そんな年齢の私に…どんなつもりで言ったの? 聞くに聞けない意地とプライド。
焦っているなんて思われたくない。
そりゃ……焦ってるのは事実。平静を装いながら鼓動の速さを悟られないように、曖昧な笑顔を作った。


少し高いワインとケーキを買って、孝明が料理を作ってくれて、部屋で過した日曜の夜。
明日には中国に行かなくちゃいけない孝明は、気を遣ってくれているのか、そんな素振りはほとんど見せないでくれている。
「そろそろ日付が変わって8日になるね」
後ろからギュっと抱き締められた。
「とうとう三十路にリーチかかっちゃう」
「20代最後の1年だね。良い1年にしたいね」
日付が変わると同時に交わしたキスも、別れが近付いて切ない気持ちも、過ぎ行く時間に飲み込まれるのはあっと言う間。

月曜の朝にベットの上で目を覚ました時は無性に泣きたくなった。
もう孝明が日本を離れるまで時間がないと思うと、急に不安感が押し寄せてくる。
会社の近くまで送ってもらった。孝明はそのまま空港へと向う。
その背中を見送る。
今夜から2人は離れ離れ。
しばらくの間、隣で笑う笑顔がない。
抱きとめてくれる腕がない。
優しく甘い声が聞こえない。

寂しさ押し寄せるけれど、本当にその重さを実感し切れていなかった。
この寂しい気持ちが、日に日に増して心を占領していくなんて考えも及ばなかった。 そう寂しい≠ニいう感情が、人の心に大きな影響を与えていくなんて知りもしなかった。
壁なんて乗り越えられると信じて疑わなかった私。
その感情に人生を揺さぶられる日が来るなんて――――

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