― 芽吹いた猜疑心 ― 

 

 

「おはよう。こんな所で寝てたら風邪ひくよ」
優しい声で目を覚ました。
「あ、おはよう」
「どうしてソファーで寝てたの?」
孝明に真直ぐな目で聞かれ、言葉に詰まった。
言えないよね。他の女の名前をうわ言のように繰り返す君に、イライラさせられてベットで眠れなかっただなんて。

黙りこんで俯いた私を、大きな腕が包む込む。
「分かった、俺のイビキがうるさかったんでしょ?」
真っ白な歯が見えるくらい、無邪気に微笑みながら抱き締められる。 その表情を見てしまえば、尚更言えなくなる。だって、私だけを好きでいて欲しいと願いたくなる笑顔だから。私、この笑顔に弱い。
「うん、何だか寝付けなかったんだ」
適当に笑顔で誤魔化し、適当な言葉で濁す。
このままでは、今までの本音を見せないまま進めて失敗した、過去の恋愛と同じ事を繰り返すと分かっている。
それなのに、心の中に芽吹き始めた猜疑心≠口に出して伝えられない。
「コーヒー淹れてくるから待ってて」
キッチンへと向う孝明の背中を見て、心の奥が締め付けられるような鈍い痛みを心の奥に伝えてくる。

猜疑心を口に出せないのは、前よりもずっと孝明に惹かれているから。
過去の恋愛の時とは違う理由で本音を言えない。
勝博や幸治に対して本音を言えなかったのは、恋愛を継続させるためだった。 けれど、孝明に対して何も言えなくなってしまうのは、私自身が好きで仕方がないから。
自分が思っている以上の速度で、孝明という人間に惹かれてしまっている。
それが良いとか、悪いなんて、打算的な考えなしに。
ただ孝明と一緒に嫌われるのが恐い。
優しい笑顔を見れなくなるのが恐い。
猜疑心よりも好きの方が大きくて、失う事が恐すぎる。
きっと、口にした名前は過去の恋人の名前に違いない。もしかしたら私の名前と間違えたのかも。

夏樹が前に言っていたから。
彼氏に昔の女の名前と間違われる事があるんだ――――と。
他にも同じ事を言っていた人が何人もいた。
男の友達は、頭の中では彼女の顔が浮かんでいるのに、元カノの名前を呼んでしまった事があるんだ――――と話してくれたし。
付き合いが長い人間の名前の方が頭の中に残るから。まだ付き合いの浅い私よりも、元カノの名前が出るのは仕方がないんだ。

頭の中では、そんな考えがグルグル回っていた。
「コーヒーどうぞ」
にこやかな顔で可愛らしいマグカップが差し出された。
心臓がドクンと大きな音を立てる。同時に鋭い痛みが心に突き刺さる。
何度か泊まったこの部屋。今まで気付かなかったのは、自分がぬるま湯に浸かったような考えでいたせいなのかな。
ううん、気付こうともしていなかったのかも知れない。他の女の影――――に。
「な…んか、部屋の雰囲気に合わないくらい、乙女ちっくなカップだね」
無理矢理に作った笑顔で、カップに視線を落としたまま、孝明の目を見ず言うのが精一杯だった。
「そう?……って、優が言う通りだね」
困惑した顔。その目が可愛らしいカップを捕らえている。
愛しいものを見るような優しい目の奥で、何を考えているの?

―――――――――――――――――――――――――――――

しばらくの無言の後、孝明がゆっくりと話し出した。
「このカップ、前に好きだった人が買ってくれたんだ。俺の部屋シンプル過ぎるって言って。 付き合っていた訳じゃないから、優と付き合ってからも気にしないで使ってた。でも、優は嫌な気分になるよね。捨てておくよ」
それが本音かどうか――――そんなの私に分かる訳もなくて。
「そっか。でも、無理して捨てなくても良いよ」
本音と裏腹な言葉を口にしてしまっている。
猫かぶってる場合なんかじゃないのに。本当は捨てて欲しいと思うのに。
「でも、優に嫌な想いさせたくないから。俺が今、一番大切なのは優だから」
肩に腕が回され、優しく髪に触れる長い指。
その優しさ、その言葉が心の奥を締め付ける。気付けば涙が落ちた。
私の意思と正反対に流れた涙。この涙は心の痛みが生んだもの。

「泣かないでよ。俺は優が一番大切なんだよ?その気持ちに嘘はないから」
「あれ…何だろ。どうして涙なんて出るんだろ」
頬を伝う涙を、孝明の長い指が拭い取る。
「優が苦しいからじゃない?でも信じて。優を大切にしていくから」
繰り返された大切≠ニいう言葉。
大切にしてくれている事なんて、痛いほどに伝わってきている。
けれど、孝明本人はきっと気付いていない。
愛していると、大切の言葉の違いに。

「なんか、ご機嫌取りになる感じの渡し方になっちゃうんだけど…」
気まずそうに孝明が取り出した物。
カチャリと音を立てて、少しだけ孝明の体温を吸い込んだ金属が、私のてのひらに乗る。
「これって…合鍵?」
驚いて顔を上げた私。目の前には日陰の雑草を照らす太陽のように、優しく微笑む孝明の笑顔がある。
「前に言ったでしょ?合鍵用意しておくって。いつここに来ても良いよ。俺が居ない時でも、連絡なしの突撃訪問でも平気。 優が来たいと思う時、いつでも良いからおいで」
そんな言葉、言わないで。
そんな優しさ、向けないで。
そんな笑顔で笑いかけないで。
こんな男らしい姿見せないで。
心が全部持って行かれるから。好きで仕方がなくなるから。心の中の温度が急上昇するように、熱を帯び始める。
どれだけ好きになって良いの?
どこまで好きでいさせてくれる?
心の中で芽吹き始めた、強い強い恋心。今まで人を想った以上の感情が顔を出す。

芽吹いてしまった猜疑心と恋心。
同じ天秤の上にあるとすれば今は五分五分。
いつかどちらかが勝るとすれば、それは恋心が良い。
信じてみたい。孝明なら、この猜疑心を吹き飛ばしてくれるような愛をくれると。

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