― 目の前の男 ― 

 

 

 

孝明のマンションに車を置いて、徒歩で近くの焼き鳥屋に足を運ぶ
「ここ、俺よく来るんだ」
スマートな笑顔と似つかわしくない古びた店は、ドアを開けると威勢の良い声が飛んでくる。
「いらっしゃい。タカちゃん、今日はカウンターしか空いてないけど良い?」
ハスキーな声が孝明に向けられた。
その声は一瞬、男性のものかと思うような声。しかし、声の方向には私と同年齢の綺麗な女性がにこりと笑顔を作っている。

「優、カウンターで平気だよね?」
孝明はいつになく優しい顔付きで話し掛けてくる。その様子を見ていると、この店が孝明にとって本当に居心地の良い店なのだと実感させられる。
「うん。大丈夫。このお店賑やかで良いね」
お世辞に近い言葉に笑顔を貼り付けて返すと、孝明は本当に嬉しそうに笑う。その子供っぽささえ感じさせる顔に、心の奥がときめきを伝えてくる。

「はい、どうぞ。飲み物はどうします?」
威勢の良いハスキーな声と相反する、綺麗過ぎる顔。思わずつられて笑顔を返してしまう。
「取りあえずビールで良いよね?」
優しく顔を覗き込んでくる孝明の言葉に頷く。女性は「了解」と言い残し、カウンターの奥へと消えて行く。 手際良くサーバーからビールをグラスについでいる姿を呆然と眺めていた。
「あの人、綺麗」
呟くように出た言葉に、孝明は曖昧に笑顔を返して言葉を濁した。
壁に掛けられたメニューを見ながら、どれにしようかと真剣に考え込む表情は、今まで見た中でも一番自然な姿に見える。 まだ付き合う前に、2人で行ったバッティングセンターでの孝明の自然な表情が走馬灯のように頭の中を駆け巡る。

「タカちゃんの彼女?可愛らしい娘だね」
ビールを差し出しながら言う女性に、「まあね」と嬉しそうに答えている。
そっか彼女なんだよね、なんて再認識している自分。未だに自分が孝明の彼女である自覚が薄いのは、流されるままに彼女になってしまったせいだ。
「タカちゃんってモテそうで不安にならない?」
カウンターの中で手際良く焼き鳥を焼きながら、時折視線をこちらに向け、話を投げ掛けてくる。
「あ、はい。モテるだろうな、と思う事はあります」
慌てて答えた私を見て、彼女はにこりと笑顔を作った。
「でも安心してね。タカちゃんは過去に痛い経験があるから、浮気もしないだろうし。ね?」
さり気なく気になる言葉を残し、孝明の顔を見ながらイタズラに微笑むその彼女の笑顔を見て、過去の孝明の事を全然知らない自分を再認識させられる。
そして、その言葉に「まあね。浮気は絶対にしませんよ」と言う孝明の表情をただ眺めていた。

賑わう店内。煙が時折店を占領するような中、妙な居心地の良さを感じながら、焼き鳥を食べて会話する。 そんな時間がとても平和でゆったりとしているように思える。
ビール3杯目を飲んだ頃、勇気を振り絞って孝明に聞いてみる。
「さっき…話に出た、過去の痛い経験ってなに?」
「ん…昔、付き合っていた彼女がいて、それなのに他の女に目が向いてさ。心が彷徨ってしまった時期があったんだ。けれど彷徨った心の行き先は 地獄。彼女にはそれが原因でフラれ、目が向いた女には…色々と事情があって実らず。全てを失くすのは簡単だったよ」
苦笑いに近い表情で話す顔は、本当にもう懲り懲りだと言っているようだった。
「その、心が向いた女性に事情があったから諦めたの?」
釈然としなかった。押しの強い孝明が、多少の事情で引き下がるように思えないから。例え相手に家庭があっても連れ去ってしまいそうなパワーさえある、 そんな彼がどうしても想いを諦めざるを得なかった理由。知りたいのに、それ以上の言葉を伝えられない。
「諦めた。どうしようもない事情があったからね」
触れて欲しくないような話題だと言うのは、話している様子で分かった。だから、それ以上を聞けなくなった。

「そう言えば新しい仕事はどう?」
その言葉に釣られ、新しい職場でのパート3人組からの猛烈な嫌がらせの数々を年甲斐もなく愚痴ってみた。
「それで今日も出勤だった訳。私も仕事に対してのプライドがあるタイプじゃないけど、もう歯がゆくて。会社も綺麗とは言えないし。 今までどれだけ恵まれた環境で働いていたのか実感したわ」
息荒く一気に話す私を、優しい笑顔で見つめてくれる。
「そっか。大変だったんだね。本当、今日もお疲れ様。でも職場もこれから優が一生懸命変えていける要素もあるんだから、 自分なりに頑張る姿勢を向けて地道にゆっくり進めば良いんだよ」
当たり前の、ごくありふれた励ましの言葉に心を救われる気がした。
そうだよね。愚痴るよりもまず動く事。
それしか今の私に出来る事なんてないのだから。誰かを、何かを変えたいともがくより、自分が変わる事の方が簡単だし、 それが一番の近道だったりするのかも知れない。なんて思えてしまうのも、きっと孝明の明るさや前向きさに刺激を受けているのだと実感する。

日付も変わりそうな時間なのに、混み合ったままの店内。
「そろそろ出ようか?」
その言葉に頷き席を立とうとした時、カウンターの奥にあるコルクボードに目が行く。 何十枚も貼られている写真の中に、知っている顔がにこりと笑顔を向けている。
カウンターの中で、相変わらずのハスキーな声でテキパキと仕事をこなす女性と並んで写真に収められているのは、 今よりも少し長く、明るい色の髪で、パッと見た感じでは数年前のものだと思う、 志島さんの笑顔がある。
「あれ?志島さんですか?」
「え?彼を知ってるの?」
カウンターの中から綺麗な顔立ちが、驚いた表情を向けながら言葉が向けられる。
「あ、はい。私の働いている会社の社長なんです」
「え?志島くんの会社で働いているの?」
女性は本当に驚いた様子を見せる。

「優の会社の社長…なの?」
「うん。孝明も知ってるの?」
私の質問に一瞬戸惑ったような顔を見せ、その後すぐに誤魔化すように笑う。
「いや、俺は知らないけど。千尋さんと優の会社の社長が知り合いだなんて、世間って狭いなーと思って」
「本当に世間って狭いわね。志島くんたまにこの店にも顔を出すわよ」
ハスキーな声で綺麗な笑顔を作り会計を済ませる姿を眺めていた。
千尋さんって名前なんだ、この女性。
今度、志島さんと雑談する機会に、千尋さんの店に行ったのだと話してみよう。なんてぼんやりと考えていた。


店を出て、さり気なく、ごくごく自然に手を繋ぐ仕草にどきりとさせられる。
もう29才も目前なのに、未だにこんな事にドキドキさせられてしまう。
「優って、手を繋ぐだけで顔を赤くするのが本当に可愛いよね」
からかうように向けられた言葉に頬を膨らませると、その様を見て楽しそうに笑う表情が目の前にある。
こんな幸せな時間の積み重ねが恋愛なのか、なんて思っていると、ポケットの中の携帯がメールの着信を告げる。

夏樹からのメールは、私に葛藤と現実のリアルさをまざまざと見せつけてくれている気さえした。
【私達、結婚する事にしちゃいました。来年には親になっちゃいます。来月の8日に入籍する事にしちゃいました】

明るい文面の、喜ばしい内容。
けれど心から喜んだり出来ないのが現実。また一人…中の良い人間が私よりも一歩先を行く。
その現実も痛いけれど。
ねえ、夏樹。その日は私の誕生日なんだけど…。
これって何かの嫌がらせですか?
そんな突っ込みようのない言葉が頭の中を駆け巡る。

――――――――――――――――――――――――――――――――

NEXT→ 3章05

BACK→ 3章03

TOPページへ

ネット小説ランキング>現代・恋愛 シリアス>負け組にむかってに投票

ランキングに参加しています。応援お願いします。

 

 

inserted by FC2 system