■□ ターゲット3 #3 □■



 朝携帯が鳴る。着信は会社の番号からだ。
 「もしもし」
 『さっさと会社に来てよね。依頼者の旦那が訪ねて来てるわ』
 ヒステリックな怒鳴り声に近い甲高い声が耳の奥に強烈な刺激を与える。朝早くから杉山の声を聞くのは気分的に滅入る。
 「なんで訪ねて来てるんですか?」
 『知らないわよ。どうせ山田さんと何か仕掛けたんでしょ?やばいわよ。依頼者が昼過ぎには来社するんだから』
 冷や汗が出る思いとは、今の状況にふさわしい言葉だよな。そうだ、依頼者への報告当日だった。 その前に粕谷康史の返事が欲しかったのは確かだ。けれど、電話で連絡が来れば――程度の期待だったのに、直接来社するあたり事情は根深い何かを抱えているに違いない。

 「今すぐ出ます。それまでのつなぎお願いします」
 『了解。私に内緒で話を進めた上に、こんな役回り押し付けたからにはお礼を要求するからね』
 「そうですね。デートでもします?それともキスが良い?」
 『……』
 そこで黙り込むなよ、なんて言葉が喉元まで上がってきそうだった。杉山のつかみ所のなさには未だに慣れられない。 いつもみたいにバカじゃない?≠ネんて冷たく言い放ってくれれば良いのに。どうして今この場で黙り込むかな。

 『将哉は誰でも平気なんだもんね。だから――この仕事も出来るんだよね。そんな言葉も簡単だよね』
 「え?」
 そのまま電話は切れて、無機質な電子音だけが耳に伝わってくる。
 杉山は何を言いたかったのか。いつものようにヒステリックな声を上げてくれた方が随分と気が楽なのに。 つぶやくように吐き捨てる言われた言葉の重み、この時は気付く事もないまま、心の中に小さなしこりを残しただけだった。

 「会社から?」
 ベットの中から優しい声が耳に届く。
 「うん。依頼者の旦那が会社に直接来ちゃったらしい。午後には依頼者も来るって言うのにさ」
 苦笑いに近い表情を向けた俺に伸びてきた腕。白くて細い腕が俺の背中に回る。
 「誰とデートするって?」
 「誰ともしないよ。軽い冗談」
 「ふーん。じゃあキスも冗談なんだ?」
 「冗談に決まってるじゃん。相手は杉山だし」
 胸元にある千佳の頬を優しく撫でようと手を差し出すと、千佳は反対側を向いてしまう。抱きついたままなのに、触れる事を拒絶している。近い距離にいるのに、心はどこか遠くにあるように感じる瞬間。 そんな千佳の行動が、今までに見せた事のない一面であるなんて気付かないまま、千佳の顔を指で持ち上げるように上を向かせてキスをした。

 「杉山さんだから冗談にはならないと思うけど」
 「は?あんな女にキス出来る程酔狂じゃないし。目の前にこんなに良い女が居るわけだし」
 一瞬の無言の後、微笑んだ千佳はいつもと何ら変わりない完璧な笑顔だった。
 「早く会社に行かないとね」
 「だな。カギは…そうだな。会社まで持って来てくれれば良いかな」
 千佳の掌に自室の鍵をのせた。カチャリと冷たい音が、無音の広い部屋に反響した。
 「合鍵もらいたいかな」
 「そっか。じゃあ、これ持ってて良いよ」
 スペアキーを引き出しから取り出して渡す。それが特別な意味のある一言かどうか、考える事もしなかったのは子供だったから。 千佳とはお互いが本音を見せないまま、それでいて癒しを求める関係、なんて身勝手に考えていたから。
 根深い情念の種まきを、自身の浅はかな行動でせっせとしているなんて、これっぽちも気付けない愚か者だった。



 会社に着くと、山田が既に到着をしていて、粕谷康史と話を進めているようだった。俺の姿を見付けるなり杉山が駆け寄る。
 「遅いじゃない。粕谷康史とのコンタクトの件、私にも話しておいてくれても良かったんじゃない?」
 「そうですよね。山田さんの勢いに圧倒されて考えが及んでいませんでした。杉山さんにも声掛けるべきですよね。同じチームなんだし」
 また嫌味の一つでも飛んでくるに違いない、なんて思っていたのに反応は予想と反していた。
 「山田さんが将哉の練ったプラン見せてくれて、今まで目を通してた。良いプランだと思う」
 「ありがとうございます。一晩考え抜いたかいがあります」
 「もっと…将哉って冷たい人間だって思ってた。人の人生がどうなろうが関係ないって思っているだろうって、勝手なイメージ持ってた。 だから驚いた。でも今回のプラン見て、将哉の心の中にも温かい部分あるんだな、って思って安心した」
 嫌味なのか、ストレートな言葉なのか。判断なんてつきそうにない。人なんて、心の奥底で一体何を考えているのかなんて分かるはずもないから。
 「一緒に考えてくれたのが千佳だからかな」
 「え?千佳と?」
 曖昧に微笑んで言っただけの、何気ない俺の一言に眉をしかめた杉山。いつも通りの杉山の顔だ。しかめた眉に鋭い目で相手を見る、いつもの杉山の顔。 ピリピリしたような空気感もいつもの事で、杉山の反応なんてあまり気にせずに、俺は山田と粕谷康史の居る部屋へと向った。

 「失礼します」
 部屋のドアを開けると粕谷康史は立ち上がり一礼する。その仕草はスマートで洗練されている感じがする。妻帯者でありながらモテるのも頷ける。
 「本日はあなた方に仕事の依頼をさせて頂きに来ました。多少は山田さんと進めていましたが、今回の提案があなたからだと知って、何とお礼を言って良いか」
 深く頭を下げる粕谷康史の顔には、どこか安堵したようなものを感じざるを得ない。一体、粕谷康史は何にそこまで怯えているのだろう。
 「斉藤祐輔と申します。よろしくお願いします」
 いつものように偽名を名乗り頭を下げた。

 話を進めていく中で、粕谷康史が依頼者である妻に、頭の上がらない状態だという事が良く分かった。
 画廊を経営する際、妻の両親に多額の資金援助をしてもらっての成功であって、現在も頭の上がらない状態であると言う。
 妻と知り合ったのも、元は妻の父親の下で働いた事がきっかけらしい。お嬢様育ちで思い込みの強い年上の女。 苦手だったけれど一目惚れしたと押され、父親にお世話になった手前断る事なんて出来ず流されるままに結婚していた、そう言いながら力なく笑う顔には覇気さえ感じられない。
 40代になって人生に対して、良い意味での諦めがつき始めていた時出会ったのが桶屋琴音。 仕事に対してストイックな姿勢、真っ直ぐに作品作りに力を注ぎ続ける姿に心を打たれた、と言って笑う顔は先ほどと違う優しいものだった。

 「今更、こんな歳になった男の台詞じゃないですが――初恋なんです。いや、恋とは少し違うかな。初めて人を心から愛したんです」
 「奥様との離婚は考えているんですか?」
 ストレートな俺の質問に困惑した表情を浮かべる。
 「出来る訳なんてないんです。琴音も望んでなんていません。私が離婚出来る訳がないと、彼女は分かってくれていますから」
 「本気で望むなら、出来ない事なんてないんですよ」
 山田が真顔で口にした言葉が、この後の展開を大きく変えていく事になる。

 最初に俺達が練り上げたプランが方向性を変えていく。
 ただ依頼者にバレないように出産出来るように、としか考えていなかったのに、気付けば離婚を大前提とした話に進んでいく。 そして、最初は依頼者だった女が、新しい依頼者の願いで次のターゲットになっていく様を目の前で見ていた。
 「じゃあ、琴音さんの恋人役として1名、奥様へ差し向ける人間が1名の合計2名の人間を用意します。本当によろしいですね?」
 「ええ。お金はいくらかかっても良い。妻と別れられるなら何百万でも払います」
 粕谷康史が新依頼主になった瞬間。

 「山田さん、受付から連絡です。粕谷様がいらしているようです」
 杉山が内線を切りながら声を掛けた。粕谷康史の顔が強張る。
 「では、今から奥様との面会に行って来ます。粕谷康史さんと桶屋琴音の間に男女の関係性はないと報告してきます。彼女には別に恋人の存在があるようで、詳細は調査中だとして報告します。よろしいですか?」
 「はい。私はあなた方を信じます。よろしくお願いします」
 粕谷康史が俺達に頭を下げた。
 「では、私は奥様との面会に行ってきます。明日までに契約書を用意しますので」
 「はい。では明日またこちらに寄らせて頂きます」
 山田は粕谷の妻へ、嘘の報告をしに向う。
 たくさんの小部屋で仕切られている迷路のようなフロア内を、粕谷夫妻が鉢合わせてしまわないよう杉山が案内して粕谷康史が去って行った。 一人取り残された小さな部屋。ソファーに腰を下ろすと深い溜息が漏れた。
 「良かった…」
 口をついて出ていたのは、安堵して思わず出た独り言。そのまま意識が遠のいていくのを、どこか頭の隅で感じていた。寝不足で疲れ切った体と頭が、限界だったようでソファーの上で眠りに落ちた。

2009.12.11
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