■□ ターゲット3 #2 □■
誰もが損をしない結果。
そんな結果があるのだろうか?
何度考えても、誰かが不幸になる図式が頭に浮かぶ。
依頼者に報告出来ない事が一つ。ターゲットの妊娠。妊娠の事実を伝えれば、依頼者・ターゲット・旦那、全員が嫌な想いをするのは明白だ。
バレないようにするにはどうするべきか。
いくら考えても今の状況では無理が出てくる。
ターゲットも依頼者の旦那も、依頼者が2人の関係を調査している事にさえ気付いていない現状で、俺達が動くにも限界が出てくる。
今は依頼者に「不倫関係にない」と報告するのは簡単だ。
けれど依頼者の旦那が、出産を目前または子供の顔を見て、離婚を切り出す事も考えられなくはない。
そうなればこちらの立場が不利になるのは明白。取り繕うようにこの状況を誤魔化すだけでは意味がない。
「煙に巻く――――か」
「どうしたの考え込んじゃって」
優しい千佳の声。頭の中のまとまらない考えの数々が、千佳の存在で洗い流されていくように感じる。
最近、千佳と居ると落ち着ける自分に気付き始めた。
けれど燃えるような恋心という感覚でもない。不思議と落ち着く存在という感じかな。
だからこうして考え事をする時は、千佳を呼び出してしまう。
「例の件だけど、誰もが損をしない道ってあるかな?」
「ない、とは思わないわよ」
長くて柔らかな髪の毛が目前でふわりと揺れ、甘い香りが鼻をかすめる。
千佳の柔らかくて温かな唇が、俺の頬にそっと触れる。
「依頼者が望んでいるのは離婚回避。依頼者の旦那は、妻にバレずに愛人に無事に子供を生ませる事。
愛人が望んでいるのが子供を生むことだけなら何とかなると思うわよ」
「どうやって?」
「私なら依頼者の旦那を巻き込むかな」
やはり依頼者の旦那に今の状態を知ってもらわなければ解決は出来ないのだと再認識させられる。
旦那にバラした上で無事に解決する方法――――か。頭の中をいくつもの考えがめぐる。
その間、千佳は言葉を口にするでもなく隣に座り、過ぎ行く時間を共に過してくれる。
一体、どれだけの時間考えていたのだろうか。
陽が落ちて暗くなった部屋。やっとまとまった考えを千佳に話した。
「千佳の言う通り、依頼者の旦那には調査されている事を知らせる。調査費用での損を出す訳にもいかない。
今のままだと依頼者からは別れさせ屋としての成功報酬はもらえない。調査費用しか回収出来ないのは損だよな」
「どうやってその分を補填するか決まった?」
ゆっくりと首を縦に振った。
「詳細を煮詰めたいんだ。千佳の知恵も貸してくれないかな?」
「良いわよ。将哉が考えたプラン話して。でも私をプラン決定まで付き合わせるなら高くつくわよ?」
「何かプレゼントでも欲しいとか?千佳が欲しい物なら何でもあげますよ」
クスッと笑う仕草が、今までに見た事のない妖艶さを持っているように見え、背筋が凍るような感覚が身を包む。
千佳の魅力なんて散々見てきたはずなのに。時折見せる千佳の何気ない仕草に魅了されそうになる。
「じゃあ、将哉が欲しい。将哉の心が欲しい。その心の全部」
「もう半分近く持って行かれている気がするよ」
そう?と言いながら、細くて白い腕が首に巻かれる。魅力的な千佳に惹かれない訳じゃない。
ただ、一線を越えている現状が、千佳にとって仕事の延長線なのか、ゲームなのか。それとも本気なのか、理解出来ない。
もしかしたら真直や山田に頼まれて俺を見張っているのかも知れない――――そんな考えが頭を過ぎる事がよくある。
それなのに千佳の腕をはらえず、唇を重ねてしまう俺は何がしたいのだろう。
――愛情不足――
大嫌いな言葉が頭の中を何度も何度も通過する。呼吸が出来ないような感覚が身を包む。
声を出そうとしても出なくて、走りたくても足が思うように動いてくれない。腕を伸ばして必死にしがみ付こうとした時、目が覚めた。
たまに見る嫌な夢。何度も何度も魘されてきた悪夢。
マリア像が俺に向って言う、聞きたくない言葉。『愛情不足なのね』と。
愛情が不足していると自覚があるからその夢が嫌いなのか、話す訳もないマリア像が話し掛けてくるのが恐く感じるのか。
クリスチャンでもない俺がマリア像を夢に見て魘されるだなんておかしな話。そしてそれが理由でマリア像が嫌いだと言うのも情けない。
どことなく母親の髪型やハッキリとした顔立ちが、マリア像に似た雰囲気を持っている事が余計苦痛なのかも知れない。
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「どうするか決めたか?」
「企画はこれにまとめてあります。目を通してもらえませんか」
山田に手渡した企画案。昨晩考え抜いた企画だ。
ゆっくりと企画案に目を通す山田の姿を見ながら、息苦しさに似た感覚が身を包む。
「なるほどね。依頼者の旦那からもお金をもらおうって事だ」
「はい。依頼者から回収出来ない分を旦那から回収します。こちらから依頼者の動向を報告し、無事に出産させる事で報酬を得るしかないかなって」
「よし、それで行こうか。ファーストコンタクトの準備始めようか」
練りに練った企画が動き始める。上の許可なんて取らないまま動くなんて、俺達はどうかしている。
けれどここが裏の社会で、表の社会と一線を引かれている世界であるなら、予定された報酬が得られれば良いだけの話。
数多くの案件をこなしてきた山田が、即席とはいえ練り直した計画は完璧だ。
実行までの足取りも軽く、俺が作ったプランは山田の手で現実味を帯びた物に変えられてしまう。
「じゃあ行くか」
「え?何処に?」
「何処って新∴ヒ頼者様の元へ」
「今日ですか?今練り上げたばかりなのに、いきなり行くんですか?」
俺の反応を見て山田が笑顔で一息ついた。
「今動かないでどうする?」
言うなり、俺の反応を見るでもなく歩みを進める。遠のいていく背中を見た途端、ふっと息の漏れる自分に気付いた。
クールなふりして案外熱血漢なのかな、なんて思いながら山田の背中を見ると笑みがこぼれていた。
腐った世界を生きる腐った人間のまともな一面。
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「粕谷康史さんですよね?」
依頼者の自宅前、高級外車で帰宅してきた依頼者の旦那に声を掛けた。粕谷康史は驚いた様子でこちらに視線を向ける。
「何だ君たちは」
「おっと、大きな声を出さないで下さい。奥さんに見付かるとまずいので」
山田はにこりと笑顔を向けて粕谷康史に近付いた。
「桶屋琴音さんとあなたの関係を、奥様に調査するように頼まれた者です。ただ、琴音さんの妊娠の件はまだ伝えてはいません」
「私を――脅す気か?」
山田の目を真っ直ぐに見つめる粕谷の眼力は強くて凛としている。
「まさか。ただ奥さんに報告をするつもりはないですが、このままではいつかバレますよ。それでも良いのですか?」
「……」
何も言葉にしないまま俯いた粕谷の胸ポケットに山田が名刺を入れる。
「俺達は悪魔じゃない。俺達はあなたと彼女、そして子供を救う――救世主なんだ」
立ち去ろうとした山田に粕谷康史は声を掛けた。
「救世主だと言うなら、俺達を救ってくれるのか?」
「粕谷さん次第でしょうね」
「俺次第?」
「ええ。連絡お待ちしています。奥さんが来てしまっては困ります。もし、救いを求めるのであれば明日連絡下さい」
無言で玄関に向った粕谷の姿を見送り、静かに車を発進させた。
「あの旦那、少し怯えた感じですね」
「ああ。俺達にって言うよりは、妻にバレる事を恐がっている感じだな。何か事情があるのかもな」
山田が吐き出したタバコの煙が僅かな窓の隙間から外に漏れていく様をじっと見ていた。まるで揺らめく自分の存在のようだ、なんて思いながら。