■□ それぞれの人生―断片 #2 □■



 「どうぞ、今日はお一人ですか?」
 「えっと…はい」
 席に座れと言うように、椅子を引いて笑顔でこちらを見た。どうして良いのか分からずに腰を下ろす。 後ろのポケットに入れた封筒が、その存在を知らせるように肌に感触を伝えてくる。

 「お酒、飲めますよね?」
 無言で頷くと上品な小さめのグラスが目の前に置かれ、女将は瓶ビールを持ってきた。上品に袂を右手で押さえ、左手でビールを注いでくれる。 その仕草を見ていると女優の演技を見ているように美しいと感じた。
 「無口なんですね」
 「え、あ…えっと」
 女将の手に向けていた視線が顔へと自然と向う。お互いの視線がぶつかる。慌てて視線を逸らした。その様子は彼女にはどう映っているのだろう。 クスクスと小さく笑う声だけが耳に届く。

 手にしたグラス。注がれたビールを一気に飲み干す。
 俺と女将の様子を気にしてか、着物姿の従業員らしき女性はカウンターの隅に居るままで、気まずそうにしている。 俺がチラチラと視線を向けているのに気付いたのか「ロックアイスを割ってきます」と女将に告げてカウンターの奥の暖簾をくぐって消えて行く。
 「これを」
 震える手で差し出した封筒を、女将が不思議そうな顔で受け取る。
 「これは…」
 「渡してくれって頼まれたので。これで失礼します」
 「待って下さい」
 席を立とうとした俺に向けられた声は、上品な雰囲気を漂わせる彼女からは想像もつかないほどに大きな声だった。驚いて足が止まった。
 「あなたはどうして2人をご存知なのですか?」
 「2人?」
 彼女が言う2人の意味がすぐには分からなかった。
 「皿をくれた…真直さんと、このお金は逸男から…ですよね?」
 「どうしてって…」
 どうしてだと聞かれても、真直と山田と同じ仕事をしているからで他に理由なんてないのに。それでも彼女は不思議そうな顔をしたままだった。 無言でいる俺を見て。歯痒かったのか彼女の質問が次々に飛んでくる。

 「真直さんとはお知り合いなんですよね?」
 「友達です」
 一瞬驚いた表情を見せながら言葉を選んでいるようだった。
 「友達?あなたはかなりお若いのに?」
 嘘や冗談を繰り返す子供をあやすように話す。信じていないのだろう。もっと素直に真直との関係を話せって事だろうか。
 「若いですよ。親子ほど歳が離れています。だけど、俺を親友だって言う真直の言葉に嘘はないと思ってます」
 「彼が…親友? 人なんて信じない彼が?」
 俺に言った言葉という印象ではなかった。彼女自身が自分に言い聞かせるように、問い掛けるように呟いた言葉。

 「逸男は。逸男とはどんな関係なんですか?」
 「山田さんは俺の上司です」
 「そうですか。どんな仕事をしているのですか? 逸男は元気ですか?」
 どんな仕事――――この言葉でやっと気付いた。彼女は山田がどんな仕事をしているのかを知らない。真直の下で働いているのを知らないのだろう。
 茶谷真直と山田逸男が知り合いで、真直の下に山田がいる事を彼女は全く知らずにいる。そして俺が2人を知っているから不思議なのだろう。 真直と山田の関係を話して良いか判断が出来ない。けれど、裏の事情に関する事を安易に話すのは気が引ける。そのまま口を噤んだ。
 彼女は、俺がそれ以上話さないのを察知して溜息をついた。
 「逸男に『顔が見たい』と伝えて頂けませんか?それと、これは受け取れないって伝えて下さい」
 渡した封筒をそのままの状態で返された。俺は封筒を手に店を後にした。


 「どうだった?」
 助手席のドアを開けると、運転席を倒して寝ていた山田はすぐに体を起して聞いてきた。 いつもの山田とは違い、のらりくらりとしている感じではなく答えを待ち望んでいるように見える。
 「顔が見たいって言ってました。あと、これは受け取れないって伝えて欲しいと」
 山田に封筒を手渡すと、それを無言で受け取り胸ポケットにしまった。
 「元気そうにしてたか?」
 「普段の彼女を知りませんから…」
 「そうだよな。ははは」
 心ここにあらず、といった様子。誤魔化すように車を発進させた。

 「山田さんはあの人とどんな関係なんですか?会長の事も知ってるみたいだったけど」
 「あの人は姉さんだ。俺の姉貴だよ」
 「え? お姉さんですか?」
 「あまり似てないだろ?驚くのも無理ないよな」
 少しはにかんだように笑顔を向けた。姉弟とは思えない程、容姿は似ていない。
 ただ、何となく持ち合わせている雰囲気は似ているように思えない事もない。良いとこの出かな?と思わせるような上品な感じが二人にはある。 山田もこんな世界に身を置きつつも、昔はやんちゃだったんだろうと感じさせてくれる部分こそあれ、どこかに気品もあるから不思議だ。


 何故、合わせる顔がないなんて言ったのか。
 どうして自分でお金を私に行かないのか。
 彼女は真直とどんな関係なのか。
 真直と山田は、一体どんな関係なのだろう。
 頭の中に浮かぶ疑問は沢山あるけれど、言葉に出す事が出来ない。触れてはいけないような気がしてしまう。 半分以上は意と反して巻き込まれてしまった感があるけれど。それでも踏み込む勇気が持てないのは、2人ともが相手の事を話す時、目が真剣さを感じさせてくれるから。
 相手を想う気持ちが、軽くないのだと伝わるからこそ踏み込めない。

 「どんな事が昔あったのか、気になってるけど聞けないって顔してるな」
 「え…そんな顔してますか?」
 返事をしないまま山田が笑う。まるで子供が笑うような楽しそうな声で。
 車は海沿いの道端で停車した。車内を照らす灯りもない中、オーディオの灯りと、海をうっすらと照らす月明かりだけが見える。
 「姉さんと会長は16年前に知り合ったんだ。出会った頃は会長が30才、姉さんが24才。俺は会長と面識なんて全くなかった。ただ8才年上の姉さんに男が出来たのは分かってた」
 淡々と過去をなぞるように話し始めた内容は、どれも初耳で、どれも悲しくて。それぞれに抱えた過去と、感情の重さを俺に教えてくれるようだった。


 山田千奈津――――山田の姉が24才の頃に真直と知り合った。 弁護士の父と元教師の母親の間に生まれた姉と弟は、周囲の人間から見ても平和な家庭で育つ真面目で優秀な姉弟だった。
 姉が24才で真直と知り合うまでは。
 山田が高校生3年の頃、夜中に姉と両親が大喧嘩をしている声で目を覚ました。
 「どうして? 彼が結婚していても私はかまわない! 世間の目なんて私には関係ない」
 そんな声が響いた。姉が2年間付き合っている男が既婚者である事を、山田は初めて知った。
 両親と姉の声が耳の奥でこだまして、こびり付いて離れなくなった。
 姉はその次の日から家に戻って来なかった。

 1年後、山田が姉を見付けた時、姉は高級なマンションで週に2〜3回やってくる真直を待つだけの愛人として生活していた。
 いつも目を輝かせて仕事をしていた姿はもうなくて、けばけばしい化粧に派手な服を着た姿を見て泣きそうになった、と笑いながら話した。
 「俺、マンションから出てきた会長つかまえて土下座したんだ。『姉を返して下さい』って。愛人なんて立場で終わらせたくなかった。姉さんには幸せな家庭を持って欲しかったんだ」
 そう話す姿は、年の離れた姉の幸せを願う弟の優しさを感じさせてくれた。
 「そしたら会長は笑って言ったよ『世界で一番愛する女を手放せって言うなら、その代わりになる物を俺に与えてくれ』って。 だから俺言ったんだ『俺の命を預けます。だから姉を自由にして下さい』って。会長は『分かった』って言って、それから姉さんと別れてくれた。だけど俺が子供だったんだ。 姉さんは別れてから13年間、他の誰とも付き合ったりしていない。会長を本当に愛しているんだ」
 参ったよな、と笑う山田の目はひどく悲しいものだった。
 「姉さんも会長も…今でもお互いを想ったままだ。別れてから3年経った頃、会長に言ったんだ『姉に会っても良いです』って。だけど会長は会わなかった。 『お前が命懸けで守ろうとして交わした約束を簡単になかった事になんて出来ない』ってさ。だけどそれから毎年、別れた日に皿を贈ってるんだ。 二人の間に、何か皿に関しての思い出があるのかもな」
 話しながら山田は涙を拭った。
 大好きな姉から、愛する人を奪ったという十字架を抱えて山田は生きている。
 どんな言葉を掛けてもその傷を拭ってやる事も、軽くしてやる事も出来ないだろう。
 「お姉さんが大切だったんですね。姉弟ですもんね。幸せになって欲しいと思うのは当然ですよ」
 何も変えてやれないと思いながらも言葉を口にしていた。山田はその言葉に笑顔を返すでも、言葉を返すでもなく黙ったままだった。

 「違うんだ」
 数十秒の間を置いて山田がぽつりと呟いた。
 「え?」
 「姉弟だから幸せを願ったんじゃないんだ。姉さんを――――好きだったから。愛していたから、だから不倫なんて関係で汚して欲しくなかった、それが俺の本音だ。 誰が何て言おうと、バカにしようと…たった一人姉さんだけを愛していたんだ」

 じっと目を見つめながら話す言葉に嘘なんてないだろう。
 血の繋がった姉を愛する、その感覚を理解は出来ない。けれど、一つだけ分かる事がある。
 今も山田にとって姉が特別な存在で、だからこそ姉に会う事が出来ないでいるのだろう。
 姉を本気で大切に思うからこそ、真直と引き裂いた事に対しての罪悪感が大きいのかも知れない。
 
 この時、それぞれが抱える傷や痛み、感情が人に理解しきれるものではないと痛感させられた。
 人と人が理解し合い、共感出来る事は実は本当に凄い確率で巡り合うものなのだと知らされた気がした。
 誰かの痛みを知ったり、触れたり、慰めたりなんて簡単に出来なくて。だからこそ人は美しく儚いのだろう、なんて知った風な事まで考えた。
 それと同時に気付かされた。俺は山田や真直のように、誰かを命懸けて愛した事なんてないと。 例え曲がった感情でも、誰かを懸命に愛した山田が羨ましいとさえ思えた。

2009.10.11
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