■□ それぞれの人生―断片 #1 □■



 「バカみたい…腕はなして!」
 甲高くて苛立たしくなるような、ヒステリックな声が響いた。 どうしてもその様は大嫌いな母親と重なる。壊して、粉々にしてしまいたくなる感覚が脳を包む。

 「はいはい。お二人さん喧嘩はここまで。将哉らしくないな。熱くなるな」
 山田が咥えタバコで仲裁に入ってくれたおかげで我に返った。 さっきまで杉山の顔と母親の顔がダブって見えるような気がしていたのに、今目の前に居る杉山はいつもの勝気で傲慢な目で俺を睨んでいる。
 バタンと大きな音を立てて杉山は事務所の角にある部屋を出て行った。

 「すいません…俺、苦手なんです。杉山さん」
 「ん?知ってる。杉山のターゲットに対する思いやりのなさとかが嫌なんだろ。見てて分かるさ。だけど前に言ったろ? 杉山はトラウマを抱えて必死に生きているんだ。好きで非情になった訳じゃないんだ」
 山田は煙を吐き出しながら煙草を灰皿に押し当てた。 杉山の抱えている過去、傷って一体どんなものだろうと気になる気持ちがない訳ではない。けれど聞く事が出来なかった。


 ビルのワンフロアを占拠している事務所の中、それぞれの調査員に割り振りされた部屋は燦々と陽が入る。 山田の性格をそのまま投影したような空間は、白いデスクに白いライト、ソファーも白で統一されている。 生活感がないと言う表現が正しく思える程、この空間に人間が長時間居て、仕事をしているとは思えない。 まるで雲の上にでも居るような気さえする程、リアリティのない非現実的な空間だった。
 そんな空間で目を閉じていると、さっきまで熱くなって、一人ムキになっていた自分が急に恥ずかしく思える。 俺だってトラウマを抱えて、それを人にぶつけているんだ。杉山と同じ種類の人間だ。 それなのに人を理解する事はしないまま、自分の感情だけをぶつけている。最低な類の人間。

 「トラウマって誰でもあるのかな?」
 誰に聞くでもなく、無意識に口をついて出た言葉だった。
 「あるんじゃねーの?ないって人間が居るんだったら会ってみたいな」
 窓の外をぼんやりと眺めながら、適当な感がぬぐえないような、気だるい様子の山田が答える。 いつも冷静で、感情を剥き出しにする事もない、掴み所のない山田にも過去の傷なんてあったりするだろうか。

 杉山の戻って来ない、抱えている仕事のないある昼下がりの事。 真直と出会った時22才だった俺は、既に23才になって数ヶ月経っていた。 それまでの人生で人の抱えている傷について、考えた事なんてなかった事に気付かされた。 もちろん、自分が抱えている傷の深さにも全く気付いていなかったんだ。まだまだガキだった。


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 春の訪れを感じる季節がきていた。
 高利の件が終わった時はまだ冬だった。時間の流れはあっと言う間だった。
 【彼氏出来たんだ。将哉が励ましてくれたから、前向きに恋に進んでいける。今度彼を紹介するね】
 無邪気な文面のメールに思わず笑みが零れた。羽衣に彼氏が出来た。相手は父親の思惑通り、見合い相手だ。
 最初は娘の恋を引き裂くなんて、どれほどに身勝手で最低な親なのだろうと思った。けれど、今なら羽衣の父親の気持ちが分かる。 山田に頼んで調べてもらった。羽衣の見合い相手は真面目で親思いの誠実な青年だった。 羽衣に本当に幸せになって欲しいがために、どうしても会わせたかった相手だと言うのも頷けてしまう程の人間だった。
 女性の地位向上・確立を掲げて活動していた女性団体の代表の息子だけあって、女性の仕事や人権に人一倍敏感な人間。 羽衣と意見が合うのも納得できたし、2人が恋をするのも自然な流れにさえ思えた。

 「おい、将哉。仕事だって事忘れてないか?」
 「あ…忘れてた」
 山田に声を掛けられて慌てて私用の携帯を閉じる。
 「嬉しそうな顔でメールなんて見ちゃって。彼女か?」
 「いえ、羽衣に彼氏が出来たってメールがきたんです」
 「前回の依頼者の娘だよな?そっか、一つの傷から新たな道に進めたんだな」
 山田も少し笑顔を浮かべ、車の窓の隙間からタバコの煙を吐き出している。

 「そうだ。これ杉山に頼んでた資料」
 「なんだろ」
 山田が渡したのはクラフトの封筒に入ったA4の紙が数枚。仕事の資料ではなさそうだった。そう言えば最近杉山の姿を見ていない。 3人目のターゲットが決まってから約1ヶ月間、杉山はターゲットの素行調査で事務所にはほとんど顔を出していない。 顔を会わせにくい状況だっただけに、俺としては有難かったけれど。だから一瞬、杉山の名前を聞いて鼓動が速くなった。

 出てきた書類は高利の素行調査の報告書だった。
 見たくない、と思う気持ちもあった。それなのに目は1行ずつ文字を追っていく。 羽衣と別れ、千佳への恋心を最悪な形で失い、ボロボロになって傷付いている姿が目に浮かぶようだったから。
 けれど、そんな考えを裏切るように、高利は楽しい毎日を送っているようだった。 合コンしたり、大学時代から高利に好意を持っていた女友達と恋人のようにキスしている写真、会社の女の子とデートしている写真。 目の前にある写真の全ては、俺の知っている高利の姿ではなくて、まるで非現実的な虚像を見ているようでさえあった。

 親友とか恋人とか、家族とか。相手の事を知っているように思いがちだけれど、知っているのは表面上の、事実のほんの一部。 隠したいものはなかなか見えないし、嘘だって簡単につけるもの。知っている、なんて思う事自体がエゴなんだろう。
 俺は高利の事、知っているなんて思い込んでいた。ほんの数年、共に過す時間が多かったと言うだけで、知ったつもりになっていた。
 「知りたくなかったか?だけど、お前のやった事が必ずしも人を苦しめた訳じゃない。2人を不幸にした訳じゃない。 人にはそれぞれに生きる道があって、時に傷付き、喜びながら生きているんだ。挫折だって人生には必要なんだ」
 少しピントのズレた、山田なりの励ましの言葉。
 オブラートに包んだような言い方をしているつもりなのかな。それでも何となく伝わってくる。 お前は悪くないんだ≠ニ励ましてくれている事、心にはしっかり届いている。

 「俺が高利を傷付けた事は消せないし、友情が元に戻る事もない。そもそも友達って何だろう。 友達だと思い込んでただけで、本当は上辺だけの付き合いしか出来ていなかったのかも。高利の本当の顔、俺は知らなかった」
 「友達なんてそんなもんだろ。期待しなければ良いんだ。寂しくならないため、自分を喜ばせるために存在するんだ程度に思え。 その方がずっとずっと楽になれる。自分以外の人間なんて信用するもんじゃない。彼だって将哉の苦しさになんて気付かないんだ。 お前がどんなに苦しい想いでこの世界に飛び込んだのか、この仕事をいながら苦しんでいる事も、彼は気付かないんだから」
 山田は俺の事を見てくれている。手のかかる仕事仲間だからなのか。
 友情とは全く違う、何か今まで経験した事のないような関係のように思える。 家族、友達、同僚、上司、顔見知り、どれも当てはまらない不思議な関係。ただ近い存在で、協力的でもなければ害もない。 そんな不思議な関係は、この裏の社会が作り出すものなのかな。必要以上に相手に踏み込まない事の心地良さを感じ始めていた。


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 「今日もターゲット部屋から出ませんでしたね」
 事務所に戻って来た杉山と久々に顔を合わせた。杉山は俺の存在なんてまるで最初からそこにないかのように山田に話し掛けている。
 「ああ。引き篭もりタイプの女はやっかいだな」
 「ターゲットって普段の生活どうしてんのかな。1週間買い物にも出てないし」
 俺にとっては今まで出会った事もない人種だ。若い版画家がターゲット。 29才なのに新進気鋭で名を知らしめている才能溢れる人間――――らしい。けれど顔はまだ写真でしか見た事がない。
 作品作りに没頭してしまえば家から出ない日が続く。日々の生活に必要な物はほとんど通信販売で手に入る時代。 買い物にさえも出ないターゲットをどう落とす事が出来るのだろうか。

 依頼者は画廊の経営者の妻だ。まだ40代になったばかりの旦那を持つ依頼者は、40代後半の気品ある女性。 依頼者の夫は画廊を経営する中でターゲットと知り合い、付き合っているのだと依頼者は言う。
 けれど実際に張り込んで見ても、ターゲットが人と接触している様子を目にする事なんてほとんどない状態だ。 杉山が張り込んでいた1ヶ月間に依頼者の旦那が現れたのは2度。その2度の訪問も新しい作品の受け取りに来た程度らしい。

 「今回の仕事分からないな。依頼者の勘違いって気がしないでもないけど。俺だったら家から滅多に出ないような女嫌だな」
 言いながら、ターゲットの写真に手を伸ばした。
 「そっか?確かに引き篭もりだけど、これだけの美人だぞ。俺なら文句なしに関係持つけど」
 色白の黒髪が印象的なターゲットの写真を見て、山田がにやりと笑う。
 「2人ともキモイんだけど」
 男同士の会話をピシャリと終了させる、杉山の威圧的な態度。何となくいつもの、慣れた感覚が戻ってきた。 杉山の存在が疎ましいのは事実だけれど、杉山が居ない平凡な毎日はつまらない。張り合いが全くない。

 「さて、夜の調査は引き継いだし今日はそろそろ帰ろうぜ」
 いつもなら遅くまで仕事をしている山田。今日は珍しく仕事を切り上げると言い出した。
 「じゃーお疲れ様です」
 「将哉待て。今日、ちょっと付き合えよ」
 いつになく明るい笑顔を浮かべる山田に捕まる。こんな風に誘われたのは初めてだ。知り合って1年が経っているのに。


 山田の車の助手席に乗る。少し気持ちが落ち着かない。
 「どこに行くんですか?」
 「ん、海」
 無愛想な一言。車は急発進して暗くなり始めたばかりの街中を軽快に走り抜ける。
 一時間ほど走った車は、山間の曲がりくねった道を走っていた。見覚えのある場所へと向っているのだと気付いた。
 「ここって…真直が居た店に向う道路ですよね?」
 「……みたいなだ」
 他人事のように呟いた山田は、あの時と同じように背筋が冷たくなる程の無表情な顔をしている。 それ以上の事を聞くのは止めた方が良い気がして、そのまま言葉を飲み込んだ。

 古びた日本家屋を改装した小料理屋が見えてきた。
 店から離れた位置に車を停めた。山田は無言のまま深い溜息をつく。
 「あの…」
 何をしにここへと来たのかを聞きたいけれど、話し掛けにくい空気にたじろいでいた。
 「頼みがあるんだ。これを…あの店の女将に渡してくれないか」

 山田が差し出したのは茶封筒だった。それを受け取ってすぐ、その中身がお金である事に気付く。 200万円もの現金を渡すという事が、どういった状況なのかを飲み込む事が出来ない。
 「なんで俺なんですか?」
 「合わせる顔がないから」
 表情を失くした顔で山田が呟くように言う。その様子を見る限り、踏み込んではいけないと思ってしまう。 封筒を手に助手席から降り、小料理屋へと足を向けた。

 木製のすりガラスがはめ込まれた引き戸に手を掛け、気合を入れながら一気に開けた。
 「いらっしゃいませ」
 和服を着た女将がカウンターの中で微笑む。俺の顔を見た瞬間、その笑顔は消えた。 一礼すると女将はカウンターの中から出て来た。

2009.09.30
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