■□ ターゲット2 #3 □■
動き出したのは突然だった。
その日、俺と高利は会う約束をしていた。状況を把握するためでもあったけれど、島崎が『丁度良い』と言い出した。
高利と会う約束をした居酒屋に千佳と別の実行役の女の2人も行かせると言うのだ。
そこで偶然を装った出会いを――――と言うシナリオがすぐさま決定させられる。
「待った?」
いつもと変わらない明るい笑顔で現れた高利。仕事帰りでスーツを着て現れた。もちろん俺もスーツ姿。
そして、隣の席にはラフな格好をした千佳ともう一人の女が席に着いていた。
「お疲れ。取りあえずビールで良いか?」
何気ない仕事の話をしながらビールを飲んで食事して。時折、隣の席の千佳ともう一人の談笑が聞こえてくる。
高利は何も気付いていない。当然だ。
「ちょっと俺トイレ行ってくる」
飲み始めて1時間くらいした時、高利が立ち上がる。振り返ると同時に、千佳が手にしていたグラスにぶつかる。
大きな水温と共に、千佳の着ているワンピースが飲み物で汚れる。
もちろん、偶然グラスがぶつかった訳ではない。偶然を装いながらの計算し尽された結果だ。けれど、高利がそれに気付く事はないだろう。
「ごめんなさい。大丈夫ですか?」
慌ててハンカチを差し出した高利。けれどこぼれた飲み物の量は多く、足元もかなり濡れた状態だ。
「あ、大丈夫ですよ」
千佳が慌てた様子で拭いている姿を、高利はおろおろしながら見ていた。
「高利、トイレまで連れて行って拭いてやれよ。すいません、席の方は拭いておくので。服、綺麗にしないとシミになるから」
「本当にすいません」
平謝りしながら、千佳をトイレにエスコートして連れて行く。
「千佳、上手いなー。将哉のフォローも完璧ね。早く席片付けましょうか」
もう一人の実行役の香奈≠ニ言う女が笑顔で片付けを始めた。トイレに向ってから5分程して2人が戻ってきた。
高利は困惑した表情だった。
「すいませんね。俺の連れが迷惑掛けちゃって。服大丈夫ですか?」
「はい。すぐに乾くからあまり気にしないで下さい」
千佳は優しい笑顔を返した。やっぱり千佳の笑顔は良い、なんて余計な事が頭を過ぎる。
高利は困惑した表情のままで気まずそうにしている。
「申し訳なさそうな顔しないで下さい。たまにはこんな事もありますよ。今日は2人におごってもらっちゃおうかな?」
気まずい雰囲気を壊すように、一瞬の沈黙を破るように香奈が高利の顔を見て、にこりと笑った。
「そうですね。ご迷惑掛けちゃったので、今日は俺が出しますよ」
高利は千佳も香奈も怒ってない事で安心した表情を浮かべる。
「やったー。じゃあお2人におごってもらっちゃおうっと。せっかくだし4人で一緒に飲みましょう」
香奈のおどけた様子が場を和ませてくれ、自然と4人での食事を始められる。
2人の仕事振りをみながら、感心させられる。さすがに仕事に慣れた実行役2人。全ての出来事がごく自然だ。
4人での食事が始まって自己紹介をしている最中は、正直不思議な感覚だった。
初対面を装って、ついこの前も同じ部屋で共に夜を過した千佳と『どうぞよろしく』みたいに挨拶を交わすなんて。
3流の役者になった気分だった。
「俺、油谷高利です」
「本田千佳です」
「佐々木将哉です」
「岩山香奈です」
そんな自己紹介をしている最中にはたと気付いた。千佳が『千佳』として紹介をしている。
実行役はほとんどの場合、本名以外の名前が与えられるから。
俺が『千佳』と呼んでいる人間は――――本田千佳と言う名前が本名ではないと言う事だ。
今まで俺が見てきた『本田千佳』は仮面の一部なのか。複雑な胸の痛みを覚える。
4人で楽しく会話して、飲んで。俺と香奈が盛り上がっているふりをして、千佳と高利が話す時間を設けた。
高利が千佳に対して好意を抱くかはまだ分からない。けれど、千佳と話している時の高利の表情はとてもイキイキしている。
こんなに楽しそうにしている姿を見るのは久しぶりだ。羽衣と一緒の時も優しい表情を見せていたけれど、
今目の前にある高利の表情は羽衣と居る時よりも優しくて楽しそうだ。
「じゃあ、将哉くんのアドレス教えて下さいよー」
「OK。今度またメシでも行こう」
俺と香奈はアドレスの交換をわざとした。高利はそんな様子を優しく見守る兄のように笑って見ていた。
「ほら千佳、高利くんのアドレス聞いちゃって。高利くん、今度千佳にゆっくりお詫びしてあげてよね?」
香奈は話の流れを作るのが上手い人間だ。底抜けに明るい雰囲気を作るのが上手くて、自然とアドレス交換してしまえるような
空気を作り上げる。この流れだとアドレス交換する事がごく自然に感じてしまう程だ。流石だな。
「そうだよね。こんな居酒屋で食事おごる程度じゃ申し訳ないよね」
高利が携帯を取り出して、千佳とアドレスの交換をする姿を確認した。
その日は色々と楽しく話をして終わり。
居酒屋を出るとその場で千佳と香奈とは別れた。俺と高利は駅まで歩く。
「さっきの2人、話してて楽しかったな」
冗談っぽくおどけて高利に聞いてみる。
「だな。俺、羽衣以外の女とあんな風に食事したりするの久々だから結構新鮮だった。香奈ちゃんは明るくて楽しいし、
千佳ちゃんは上品で落ち着いたタイプだよね」
嬉しそうにしている姿を見ていると、高利もそれなりに楽しかったのだろ思う。そして――――千佳を気に入ったのは良く分かった。
「千佳ちゃん着てた服、結構高い服みたいだよ。トイレに行ってる時に香奈ちゃん言ってた。
また今度、お詫びがてら食事くらい連れて行かないとなんじゃね?」
煽ってみると高利は「そうだな。将哉も付き合ってくれよ」と笑っている。やっぱり…脈ありだな。
その日は駅で別れた。改札を抜け、ホームで高利が乗った電車を見送る。
疑う事もないまま、いつも通りの笑顔で手を振る高利の姿を見送った。
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「友達としてターゲットの反応はどうだった?」
事務所に戻ると杉山は嬉しそうな声ですぐさま話し掛けてきた。
その反応に怪訝そうな顔をしている事にすぐ気付いた山田が割って入ってくれた。
「杉山、将哉の複雑な気持ちくらいそろそろ察してやれよ」
たった一言の山田の気遣いで、心の中のモヤモヤが軽くなる気がした。
分かってくれている人間が一人でも居ると思えるだけで随分と違う。
「高利の反応は悪くないと思いますよ。千佳に対して好感持っていると思います」
「ここからどう崩すかがポイントだな」
山田は深く考え込むような仕草をした。
「アドレス交換したので、これから少しの間メールのやり取りをしてみます。その経過で決めませんか?」
千佳が携帯を持ちながらにこりと笑った。その時、その携帯がメールの着信を告げた。
【今日は本当にすいませんでした。服、もしクリーニングに出しても汚れが落ちないようだったら言って下さい】
高利からのメールだった。無精者の高利が、家に着く前に千佳にはメールを入れた。
複雑な心境だ。まさかこんなに早くメールを入れてくるなんて思ってもみなかった。
友達だから何でも知っているような気がしていたけれど、男≠ニしての高利の行動は俺の知る限りではなかったようだ。
クールで初対面の女には素っ気無い、高利に抱いていたイメージが音を立てて崩れ始めた。
「なんて返事すれば良い?」
千佳が携帯を手にしながら俺の目を真っ直ぐ見つめた。
「千佳の思うように返事してやれば良いと思うよ」
「そっか」
すぐに文字を打ち始め、3分ほどすると送信が終わったと画面を見せられた。
【こちらこそ、ご馳走になってしまってすいませんでした。最近、仕事などで落ち込む事が続いていて、
楽しく過せる時間が少なかったので、久しぶりに心から笑える楽しい時間が過せました。高利くんに感謝です。
また今度、元気の電池が切れそうな時は、高利くんに元気充電してもらおうかな】
複雑な気持ちで送信ボタンを押した。返事なんてきっと来ないと心のどこかで願っていた。
そんな願いは数分で打ち砕かれる。
【元気がなくなったらいつでも誘って。また今度、皆で騒いでストレス発散しよう】
高利から来た返事を見て複雑さが増す。いつものあいつなら、こんな風にメールを返したりしないのに。
今、目の前にある携帯には確かに高利からの返信が届いている。
友達として知っている高利という人間は、きっとほんの一部でしかないと思い知らされた気分だった。