■□ ターゲット1 #7 □■



 3ヶ月が経った。横山真澄と知り合って5ヶ月が経っている。
 「そろそろフェードアウトしようか」
 山田の言葉に顔を上げると、資料に目を落としたままの山田は笑顔だった。

 「依頼者の旦那はどうなっているんですか?」
 「ああ、2ヶ月前に手を打ってある。もう彼女の元に行く事はないだろうな」
 にやにやしながら話す山田に、その理由を尋ねてみた。

 「杉山がなんちゃってフリーライターになったんだよ」
 「意味分かんないんですけど」
 にやけて言葉を濁す山田を見て、杉山が呆れたように笑いながら説明するよと話し始めた。

 「ホテル前で撮影した写真を使って、いかにも週刊誌の記事っぽいデータを作ってプリントアウトして依頼者の旦那の所に行ったの。  『この記事を大手の週刊誌に売ろうと思っているんですけど』ってね。見出しには【大手アパレルメーカー副社長と愛人の夜】って 文字が躍ってる訳。依頼者の旦那は驚いてたわ。もうすぐ社長になれるって時期に、そんな記事が出てしまえばどうなるのかは、 彼が一番良く分かっているだろうしね。その場で200万円渡されたわ」
 ふふっと笑いながら話す杉山。

 「それ…脅しになるんじゃないの?」
 「依頼者の許可は得てるわよ?200万は追加の報酬として頂いたけど。警察に届け出る事もないでしょう。別に金銭を要求した 訳じゃないし。あっちが『これで忘れてくれませんか?』って渡してきただけだし」
 笑顔で話す杉山を呆気に取られて見ていた。前だったら、こんな杉山に違和感を感じたに違いない。
 けれど今は違和感さえ感じないほど、常識的な事が何か分からなくなりそうな程、まともな感覚が麻痺しつつあった。

 「フェードアウトのシナリオは、久々に島崎さんに頼んでみるから。近々、ターゲットと別れる事になる事は頭に入れておけよ」
 事務所を出てからも、山田の言葉が頭から離れる事はなかった。


 数日後、真直に呼び出された。 横山真澄が実家に帰省している事もあって、久々に一人で過そうとしていたのに。
『今から例の居酒屋に来いよ』
 電話口で一方的にそれだけ告げると、通話は既に切れていた。俺の意見とか…聞くつもりが全くないあたり真直らしいよな。 渋々ながら準備を済ませ、真直と知り合うきっかけになったボロい居酒屋に足を運んだ。

 「よう、遅かったな」
 店に入るなり真直の底抜けに明るい声が俺に向って飛んできた。
 「全く…人の都合も何も聞かないなんて。相変わらず勝手なんだよ」
 「まあ良いじゃねーか」
 20才以上年の離れた俺にタメ口を叩かれながらも、にこにこして酒を飲む姿は本当、そこらに溢れているダメなオヤジ代表って感じだ。 他の人が見ても、こんな居酒屋でラフな格好で安い焼酎を上手そうに飲んでいるオヤジが、政界にも影響を与える程の 大物ヤクザには見えないんだろうな。威厳の欠片も見えない。

 「上手く仕事しているらしいな。山田から報告受けてるぞ。近々、初のフェードアウトを経験するらしいな」
 「みたいだな。どうなるのか不安だけど」
 「将哉は心が綺麗過ぎるんだよ。人との出会いも別れも、頭で考えるよりもずっと簡単なんだ。女に心を奪われるとかヘマするなよ。 女なんか――――愛するだけバカバカしいからな」

 真直の言葉は何だか重さを感じさせる。だから、何となく真直に何も言えなかった。
 真直自身が過去に辛い経験をしているように思えたけれど、その事に触れてはいけないように思えたから。
 護衛なしに2人で深夜まで安い酒を飲み、ありふれたつまみを食いながら、下らない話で盛り上がる事しか出来なかった。
 こんな時は普通のどこにでもいるただのオヤジで、何となく気が合って、話もそれなりに自然と出来る、年齢を超えた友達って気さえしていた。

 まだ俺が22才、真直が45才の頃。
 この頃はまだガキで、世界の全てが簡単だなんて思っていた。騙すのも騙されるのも簡単で、辛くなるのも嬉しくなるのも簡単。 そんな気持ちの全てを味わうのも、忘れるのも簡単だなんて思っていた。
 友情が、愛情が、何かを奪い傷付け合うとか、失ったものの大きさに心を砕いたりするだなんて考える事さえなかった。


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 横山真澄との最後の夜がやってきた。
 いつものように彼女の部屋を訪ねる。正直、少しの不安が心の中に重石のように、苦しさと重さを残す。
 愛されているのは痛いほど伝わってきている。彼女にとって、斉藤祐輔という人間が心の支えで、希望だって事が理解できている。 だからこそ、これから伝えなければいけない別れ≠フ場面を想像するだけで辛くなる。
 仕事なんだ――――自分を奮立たせるように、心の中で叫んだ。

 「真澄さん、話があるけど良いかな」
 「ん?どうしたの真面目な顔をして」
 からかうように微笑みながらベランダで洗濯物を取り込んでいた彼女が近寄って来た。

 「今から食事に行かない?素敵なレストランがあるんだ」
 「嬉しいな。じゃあ準備を済ませるから少し待って」
 嬉しそうに微笑んで、彼女は準備を始めた。今から3時間がリミット。3時間は何がなんでもこの部屋には戻って来れない。

 「行こっか」
 黒いシフォンのワンピースを着た彼女はとても綺麗だった。32才という年齢よりもずっと若く見える。
 マンションを出ると腕を組んで歩く。本当、こんな瞬間だけは本物の恋人同士に見えるだろうな。
 夜の闇が街を包み始めた頃、一軒の老舗レストランの前に着いた。フランス料理のコースを頼んでワインを飲みながら、 ゆっくりと時間を掛けて食事をする。時計に目を向けるとまだ1時間半、彼女のマンションには戻れない。
 コース料理の全てが出るまでまだ1時間近くかかるだろう。ほんの少し安心した気持ちになる。


 今頃――――彼女の部屋には調査員の杉山と、他に数名が侵入している。
 彼女の部屋に残された俺の痕跡の全てを抹消するためだ。デジカメやパソコンの中にある写真から、指紋、毛髪の類。 俺に関係する全ての物が、今この瞬間に次々と消されていく。
 そのための専門の人間達が、部屋の持ち主にさえ侵入した事を悟られないままに作業していく。 自分はその現場に立ち会うことはきっと一生ない。
 説明された事を頭の中で想像するだけで。 この世界、この仕事の闇の深さを見せ付けられているような気さえする。


 食事を終えてから、夜景が見えると評判の観覧車に乗ることにした。
 この観覧車は1周するのに30分程度時間が掛かる。大きな輪が目の前にある。
「観覧車に乗るのなんて何年ぶりかなー」
 嬉しそうに窓の外を眺める彼女。徐々に高さを増していく景色に集中なんて出来なかった。

 「話があるんだ」
 「そう言えば、出掛ける前から話しがあるって言ってたよね。食事と会話に夢中で忘れちゃってた」
 照れたように笑う顔には、不思議と安心感がにじみ出ている。
 きっと彼女は分かっていない。今から切り出される話が、自分にとって最悪なものだとは考えていないのだろう。 状況からすればプロポーズという期待が出てもおかしくないはずだ。

 上着のポケットから封筒を取り出し、不思議そうな顔をする彼女に手渡した。
 「なに?」
 「中、見てくれないか?」
 街の灯りを吸い込んだ、暗い観覧車の中。封筒から取り出した写真を見て彼女は言葉を失った。

 「どう言う事か説明してくれないか?どうして…他の男とホテルなんて行くんだ?」
 「どうしてこんな写真があるの?この日…私の部屋に来たじゃない。何もないって分かってるでしょ?」
 彼女に手渡したのは、この前依頼者の旦那とホテルの前まで行った時、山田がデジカメで収めた写真だ。

 「どうかな。あの日、この人と真澄さんがバーを出たのは21時頃でしょ?俺が部屋に行ったのは24時少し前だ。 その間の時間にホテルに行くくらい出来たんじゃない?その写真が俺の所に匿名で送られてきてから、 卑怯だけど興信所を使って調べさせてもらった。2年前から付き合っているんだって?」
「聞いて、彼とはもう別れたの。信じて。私はあなたと付き合うようになってからは彼と何もないわ」
 狭い空間に悲痛な声が響く。

 「信じられる訳ないだろ?愛人しながら人の家庭をめちゃくちゃにして平気な顔をして2年も生きた人間の事なんて。 ついでだから調べさせてもらったけど、この彼と付き合う前も、その前も不倫関係だったそうだね」
 「……それは」
 言葉に詰まり、涙を浮かべる彼女を前に胸が痛まない訳じゃない。
 真っ直ぐに俺を見ていてくれた事は、一緒に居た時間の中で痛いほど伝わっていたからこそ、責める度に胸の奥がキリキリと痛む。

 「あんなに一緒の時間を過したのに、近くに居たのに、信じてもらえないのね」
 彼女が発した言葉は諦めに近い弱さを感じさせる。
 きっと今、彼女の頭の中には過去の男達と同じ、女を見下しているどうしようもない男達と俺が重なっているに違いない。 しばらくの無言の後、夜景に目を向けたままの彼女に投げるように言葉をかけた。

 「信じられないよ。この日だって、俺には送迎会があるって言ってたんだから。嘘だったんだろ?」
 「そうね、嘘よ。全部嘘。あなたの事を好きだったのも嘘。IT系の会社でキャリア組だし?見た目だって悪くないから、 付き合っていて損がなさそうだったから、だから…付き合っていただけよ」
 潤んだ瞳は夜景に向いたまま。
 今、彼女の口から出ている言葉達が、彼女にとっての強がりである事は分かる。彼女自身のプライドを守るために作られた、 そんな言葉。強がりな女の諦めの言葉。

 「やっぱり真澄さんもそんな目で見ていたんだ。俺、今までそんな女としか出会えなくて、真澄さんだけは違うんじゃないかって思ってた。 他の女よりもずっと純粋で人の痛みが分かるんだって。だけど違ったんだね。結局は他の女と同じだったんだ」
 「貧乏人と恋するつもりなんてないから」
 仕事とは言え、お互い口から出ているのは本音ではない、関係を壊すためだけに用意した言葉だ。 純粋なのも、プライドを守るために必死なのも分かるからこそ、本当に可哀相な事をしていると思う。
 この瞬間を、この先も何度も味わう事になるのかな。別れさせ屋の実行役を続ける限る。

 観覧車が1周して、係員がドアを開けた。 無言のまま下りた。彼女の目にもう涙はないのだろうか。一歩先を歩く後姿からはその表情も分からない。
 「じゃあね。お元気で」
 「真澄さんも。最後に一つだけ。もしこの先恋する事があったなら、どうか幸せになって下さい。 誰よりも幸せに笑えるようになって下さい。真澄さんの笑顔、すごく素敵だから。その笑顔…一番大切な人のために 曇らせたりしないで。あなたを好きになって良かった。出会えて本当に良かった」

 彼女の肩が震えているのに気付いていた。けれど、後ろから追い抜くように彼女に背を向けて歩き出す。
 決して振り返らない。綺麗で切ない別れの演出のために。今、どんな顔で俺を見ているのだろうか。そんな考えを拭うように、 歩みを速めた。
 どうか幸せに。
 この先の人生が、誰かの手で壊される事なんてな程に平和である事、せめて心のどこかで願わせて――――  仕事とは言え、誰かを傷付けた事に対して罪の意識だけは、ずっと持てる人間でありたいと思う。そんな別れのシーンだった。

2009.08.02
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