■□ ターゲット1 #5 □■
「よし、良くやった。完全にターゲットをものに出来るチャンスだな」
「斉藤祐輔の名刺に書いてある会社の住所から逆算すると、ターゲットのマンションまで着くには最低でも40分はかかるわね。
22時前に再度連絡しましょう」
あと1時間後には、俺は横山真澄の部屋に行くのか。
2人の会話を聞きながら、考えただけで少し手が震えた。恐いとか言うよりも、バレないかとの不安がどうしても付き纏う。
時計に目を向けると22時、「よしっ」と自分に気合を入れるように声を出した。
マンスリーを出て、横山真澄のマンションへ向った。
マンションの下に着いたと電話を入れて2分後、横山真澄が玄関まで下りてきた。
さっきまでPCの画面の先にいた彼女が目の前に居る。
着替えたようで、女性的な印象のシフォンのワンピース姿。
「すいません。何だか無理矢理誘った形になって」
申し訳なさそうな態度の奥に見える、嬉しさを含んだ笑顔。
「いえ、こちらこそ。遅くにお邪魔しようなんて図々しいですよね」
自虐的な言葉を並べ、照れたような言葉を並べながらも、彼女と足並みを合わせながらエレベーターに乗り込んだ。
綺麗に整頓された広すぎる部屋。
小物もないようなシンプル過ぎる部屋は、まるで彼女自身を投影しているようだ。
綺麗に並べられた食事。
とても短時間に作ったとは思えないようなものばかりだった。
見た目や過去の経験からは想像出来ないほど、横山真澄と言う人間は家庭的なのかも知れない。
「味、自信ないんですけど」
照れたように言う彼女は、どことなく年齢よりも幼さを感じさせる。
そのギャップにドキリとさせられたりもする。
「手料理なんて食べるのいつ以来だろう。いただきます」
不安そうに俺の顔を見る彼女に「美味しいです」と告げると顔がほころんだ。
何気ない会話を繰り返し、笑い合う時間。
彼女にとって目の前にある時間はどう映っているのか。
俺にとっては…擬似恋愛を形にするための演技を繰り返すだけの陽炎のような、ゆらめきの時間。
日付が変わる頃、時計に目を向けた俺を不安そうな視線がとらえる。
「もうこんな時間。そろそろ…失礼します」
「そう…ですよね。明日も仕事ですし…遅くまで引き止めてしまってすいません」
玄関に向う俺は、後ろを付いて来る彼女の足音を確認しながら、歩みを止めて振り返る。
「あの…また遊びに来ても良いですか?」
「はい。またいらして下さい」
横山真澄の言葉は想定内。けれど、その言葉に大袈裟なリアクションで反応してみる。
「良かった。ダメって言われたらと思って不安でした。俺、横山さんと居ると楽しくて。また会いたいって何度も思いました。
今日も会えて良かったです。美味しいご飯ありがとうございました」
「私も、斉藤さんと居ると楽しいです。また連絡下さいね」
頬をほんのり赤くしている姿。きっとこれが擬似恋愛前提の出会いでなければ、彼女自身に惹かれてしまうのかも知れない。
マンションの下まで送ってくれた彼女に笑顔を向け、ゆっくりと歩き出した。
杉山のシナリオ通り、50メートルくらい歩いてから振り返る。
横山真澄はまだこちらを向いて立っていた。その姿を確認して、大きく手を振ってから、再度前を向いて歩き出す。
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横山真澄のマンションに初めて行ってから10日が経っていた。
今日は事務所で依頼者と会っている。
「主人5日後に戻って来るんですが…横山と会わないか不安で。そちらの状況はどうなっていますか?」
怒りと不安を含んだ、女特有の嫉妬深い目が山田を見つめている。
「状況は良いですよ。ご主人が出張から戻って、横山真澄に連絡を入れても大丈夫でしょう。彼女は会わないと思います」
山田が自信満々に答える様子を見ながら、不安だった。
本当に横山真澄は、依頼者の旦那に会わないだろうか?
あれから横山真澄の部屋には何度か行った。一緒に食事をして沢山話をして。日付が変わる頃には部屋を出る。その繰り返し。
まだ恋人としての時間は始まっていないと言うのに。
それに、女は汚い心も平気で嘘で塗り固められる生き物だ。俺はそれに騙された結果、ここにいるわけだし…。
彼女も俺を騙した二木由紀のように、平気で男を騙す女かも知れない――――なんて被害妄想的な考えが頭を過ぎる。
「では、よろしくお願いしますね」
依頼者が深々と頭を下げて事務所を出て行った。
「よし、斉藤祐輔と横山真澄の恋愛がスタートするのは明日だな」
明日、金曜の夜こそは横山真澄の部屋に泊まれと言う事だ。
俺は横山真澄にメールを送信した。
【明日、会えませんか?横山さんに会いたい】
OKと言う返事が来るかどうかは賭けだ。
もし来なかったら――――なんて不安がない訳ではない。けれど、いつもカメラで監視している杉山は『大丈夫』と言い張った。
女同士だから分かる女の気持ちがあるのだと言う。今回の誘いには絶対に食いついてくると言ってのけた。
数分後に届いたのは【私も、斉藤さんに会いたいです】というたった1行のメール。
想定していた結果だけれど、上手くいってにほっとしている自分がいる。
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外は雨。夕方に強く降り出した雨は、時間を追うごとに強さを増していた。
マンションの下に着く頃にはスーツは雨粒が当り、キラキラを水滴が光る状態だった。まあ、あえて濡れるようにしたのだけれど。
横山真澄の部屋に入ると、タオルを手渡された。
「雨、凄かったから濡れちゃってますね。使って下さい」
「ありがとうございます。でも、こんな汚れたズボンで部屋に上がったら…床を汚してしまいそうですね」
「気にしないで。Yシャツも濡れてますね」
タオルを手にしながら、俺の肩を拭こうと伸びてきた手を掴んだ。
驚いた横山真澄の目をじっと見つめた。きっと言葉なんて必要ないだろう。
潤んだ目で見つめ返す彼女の腕を強く引き寄せた。腕の中に飛び込んできた体を、そっと包むように抱き締める。
嫌がるでもなく、抱き締められるままに体を任せる彼女の体を、さらにギュっと抱き締める。
「苦しい」
言葉と裏腹に、彼女の腕が俺の包み込むように腰を回される。腕の力を少し緩めた。
「俺、あなたにどんどん惹かれて、会う度に胸の中が苦しくなる」
「私も。斉藤さんに惹かれてる。会いたいって何度も思っちゃうの」
顔を上げた彼女の体をもう一度強く抱き締める。どちらからともなく唇が近付き、ほんの1センチくらい離れた所で
彼女の唇が小さく言葉を発する。
「好きになっても良い?」
ヤバイと思った。彼女の言葉がじゃない。その妖艶過ぎる仕草に打ちのめされそうだった。
吐息がかかる距離で見つめる彼女の目は、透き通った薄茶色が俺を捕らえて離さない。
清流のように澄んだ白い肌が、長くはないけれど量の多い睫毛を強調している。
すごく色気を感じさせるその顔、仕草、言葉に心がグラついてしまいそうになる。仕事だと自分に言い聞かせながらキスをした。
都会の喧騒を雨音が消し去る週末の夜、俺と横山真澄の恋が本格的に始まった。