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飼い犬になった日 □■
辿り着いたのは、川原にある小さな公園。
暗闇の先から聞こえる水音に耳がいく。そして酔いの回った頭の中で、時々考えたりしていた。
どうして俺は、このオヤジと一緒にいるんだろう――なんて。『その命、俺に預けてみないか?』と言われたけれど、その真意さえも聞けないでいる。
居酒屋の中で見ていた時は、しみったれたオヤジだなんて思っていたけれど、歩いている途中に気付いたのは生活感がまるでないという事。
見た感じは地味だけれど、スーツもシワがなくピシリとしている。あんなボロイ居酒屋に居たのが不思議な感じさえする。
「お前の名前と歳は?」
暗闇を割くようにオヤジが聞いてきた。
「将哉、佐々木将哉。22才だ。アンタの名前は?」
「将哉か、良い名前だな。髪の毛を黒くすれば20代後半に見えそうだな」
「髪の毛黒く?あのさ、意味わかんないんだけど。つーか、アンタの名前は?」
苛立ちを隠さないままでいる俺を見て、一瞬笑ったように見えた。まあ、暗くてよくは見えなかったんだけれど。
「茶谷真直だ。今年45になる。明日からはお前はもう狙われる事も付き纏われる事もない。
お前が言っている800万は俺が用意してやるし、今後は付き纏わないように話をしておいてやる」
それだけ言うと深い溜息をついた。
お前に何が出来るんだよ――と心の中に沸き起こる疑問は口にしてはいけないだろうと、出掛かった言葉を呑み込んだ。
この人は…一体何者なんだろう? 今後は付き纏わないように話をしておいてやるって…。しかも800万も用意してやるって…。
初対面で、居酒屋でたまたま顔を合わせただけの俺に、どうしてそこまでしようとするのか?
心の中にはいくつもの疑問が湧き上がるのに、それを口にしてはいけないような張り詰めた空気感が存在しているように思えた。
無言で2人並び、水音に耳を済ませていると、後ろからバタバタと数人が駆け寄って来る足音が聞こえてきた。振り返ろうとした時、
真直と名乗ったオヤジは深い溜息をついた。そして「もう見付かったか」と言葉をこぼした。
足音は俺達のすぐ後ろまでやって来て、あっと言う間に取り囲まれた。暗闇に慣れてきた目で、現れた男達に視線を向ける。
そこには、完全にヤクザだろ?
と突っ込みを入れたくなる風貌の人間が3人。そして、会社役員を思わせるような重厚感と言うか、威圧感ある男が2人。
もしかしたら…俺のせいでヤクザに囲まれてしまったのだろうか。
「捜しましたよ。今までどこにいたんですか?」
暗闇の中から発せられる声は、多分俺に向けられたものでないと分かるまでにさほど時間は掛からなかった。
「どこに居たかなんて散々調べて分かってるだろ?だったら聞くな。俺は新しく出来た友達と話をしていただけだ。
今から戻る。この新しい友達も連れて行く。大事な客人だ、丁寧に案内しろ」
「どうぞこちらに」
呆気に取られたまま、取り残されたような気分でいる俺に真直を丁重に扱うヤクザ風の男が声を掛けてきた。
「あ…はい」
完全に挙動不審の俺は、そのまま最後尾を着いていく。一体…今、俺は何をしているのか? そんな疑問が頭の中をかすめていく。
けれど、言葉を発する余裕さえ与えられないままに、さっきまでと空気感が変わった真直の後姿を眺めながら歩くしか出来なかった。
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高級外車の後部座席に乗せられて、車が走ること5分。着いたのは超高級マンション。エレベーターを待つ間、真直を取り囲む男達を、
悟られないように観察してしまう。
皆、仕立ての良いスーツに高級そうな腕時計をしている。ヤクザ風の男は喜平チェーンの金色のネックレスをしているあたり、
本物だろう…と思わせてくれる。
どうして俺は…こんな場所に身を置いているのか。
酔っていたはずの頭は、既に酔いさえも失せ、駆け巡る疑問の答えを見付けようとしている。
最上階には2部屋しかないようだった。
重い木製の高級感溢れるドアに、男達は吸い込まれるように入って行く。そのただならない雰囲気に圧倒されて立ち尽くしていると、
一番若い、多分俺と同じくらいの年齢の男が駆け寄ってきた。
「どうぞ。入って下さい。会長が待ってますよ」
会長って…一体誰の事だよ? と思いつつも、その男と一緒に中に入るしか出来なかった。
「将哉、取りあえず適当に座れ」
真直ぐはスーツの上着を脱ぎながら声を掛けてきた。
適当に…と言われても、目の前には間接照明がほんのり照らす室内に、さっきよりも大人数の男が居て、それに取り囲まれるように
置かれた革張りのソファー。まさかここに座れって言うつもりか…。
「どうぞ、こちらにお座り下さい」
真直と同じくらいの年齢の、パッと見た感じでは会社役員風の男が座るように促す。
「あ、はい」
マジかよ…なんて思いつつも、それを表情に出す事も出来ないまま座るしか俺には出来なかった。
その場に居る全員の視線を集めているのは分かっている。だからこそ顔を上げる事さえ出来ないで居た。
そして、役員風の男達が真直に声を掛ける時に『会長』と言っている事に気付くまで、さほど時間は要さなかった。
さっきまでボロイ居酒屋で、特別旨くもないごく一般的な料理を嬉しそうに食べ、どこでも飲めるような焼酎を飲み、
一人呑気な空気を漂わせていた真直はもう存在していなかった。
険しい顔付きで、あれやこれやと会話をしている姿を眺めながら、状況を呑み込もうとする事しか出来ないでいた。
「将哉、さっきの話だが。詳しく聞かせてくれないか? お前に金を要求している人間の名前とか」
真直に聞かれ、正直に全てを話すより他にない。
俺は金を要求されるようになった経緯を話していた。
途中でヤクザ風の、多分この場では一番手下と思われる男がぽつりと呟いた。「二木か…」と。どうやらこの場に居る人間の
ほとんどが二木兄妹を知っているようだった。
「なるほどな。あの兄妹か。妹に手を出して金を要求されたって訳か。将哉もタチの悪いのに捕まったもんだな」
真直は優しく微笑むと、数人に「話をつけて来い」と声を掛けた。
声を掛けられた男達はすぐさま出て行く。
「あの…」
俺が真直に声を掛けると、真直は笑顔を向ける。
「明日にはお前は二木に追い回される心配なんてなくなるさ」
優しくも、恐くもある笑顔を向けられて、俺はそれ以上言葉を発する事が出来なくなった。