■□ 飼い殺しの犬 □■
自分は何のために生きているのか。
そんな事を考え出せばきりがない。
誰のために、何のために、自分が存在しているのか。そんなありふれた疑問に包み込まれてしまいそうになる事さえ、もう慣れてしまう程。
自業自得だと誰かが笑った。
可哀相だと哀れむ人間がいる。
事実、自分が今を、この先の長い時間をどう生きるのかさえ見失いそうになる日々が続いている。
表面上は泰然自若を装いながらも、自分の生き方を見つけ出したくてもがいている。息を吸う事さえ簡単に出来ない、俺はまるで飼い殺しの犬。
会いたいと願う人がいる。たった一人、この世の中で会いたくて仕方がない存在。けれど、会う事が出来ない唯一の存在でもある。
会いたいと何度も願うけれど、その願いを実現させる術を持ち合わせてはいない。
同じ国、同じ時の中を生きながらも、互いの時間を重ね合わせてはいけない存在。分かっているけれど、心が求めてしまう唯一無二の人。
広い部屋、荷物もあまりないガランとした、些細な物音さえも容易に響く、空しさ募る空間に一人。過去の自分の記憶をなぞるように目を瞑る。
彼女は今をどう生きているのだろうか。何を想っているのだろうか。俺を…記憶の片隅にでも置いていてくれるだろうか。
会いたい。今すぐにでも会いたい。
望んではいけない想いを抱きながら、胸を締め付ける重みを感じながら、頬を伝う涙を拭う。俺らしくないと自分に言い聞かせながら。
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「将哉、お前の彼女ヤバイ人達と関わりがあるって噂あるけど平気か?」
親友の油谷高利が眉を顰めながら聞いてきたのは、かれこれ5年くらい前の事。
その時に付き合っていた女が、ヤクザ関係の人間と付き合いがあると、ただならない噂があるのは知っていた。と言っても付き合ってから知ったが正しい。
「そうらしいな。上手に別れる方法を探している最中だ」
22才の俺はその時の彼女とどう別れるのかばかり考えていた。平穏な生活に影を落としかねない存在と、何とか縁を切りたいと切に願っていた。
特別愛情があった訳ではなかったし、付き合った理由だって可愛いと思ったと同時に、恋愛なんて簡単なものだと思っていたからだ。
「気を付けろよ。あの手の女は厄介だから」
心配そうにしてくれた親友。けれど結局はその心配は現実となり、俺が願った平和な生活は、たった一人の女の存在で地獄の中に消えて行く。
そのキッカケを作ってしまったのは自分で。恋愛を軽く見ていた自分の罪が跳ね返っただけと言われればそれまで。
けれど、戻れるのであれば、その元凶となった存在、二木由紀と出会う前に戻りたい。
佐々木将哉、現在27才になる。
職業、表向きは調査員。実際は…セレブを顧客とする『別れさせ屋』の覆面調査員だ。別れさせ屋と言えばさほど聞こえは悪くないかも知れない。
けれど実際は、多額の報酬を得るためターゲットに近付き、擬似恋愛に溺れさせて依頼者の配偶者や恋人との関係を清算させる役割。
愛もない恋愛を、与えられた筋書き通りに実行して一人の人生の方向を変えてしまう、ある種の堕天使。いや、悪魔かも知れない。
配偶者に離婚を切り出されたくないお金持ちは、この不景気な日本にもまだ多くいる。
例え何百万円ものお金を支払ってでも、その関係を清算させたいらしい。
愛人と自然に手を切りたいと願う、身勝手な金持ちも多い。愛人に結婚を迫られ、妻に不倫を悟られるのを恐れる大企業のお偉い方々。
体裁を重んじて、娘の恋愛を壊そうとする親までいる有様だ。
全ての案件にそれぞれの事情があるにしろ、その事情に漬け込んで多額の報酬を得ている俺達は、まるでハイエナ。
ライオンの群れの後ろに付き、おこぼれを得ながら生きて行く。
そんな世界に望んで足を踏み入れた訳じゃない。
表向きは『探偵事務所』の看板を下げた会社、しかし実際は後ろに大きな組織がいる。歯向かうなんて出来ない。それは命を捨てるのと同じ。
ヤクザとの繋がりがある世界に入ってしまったからには、例えどんな理由があろうと簡単に抜け出すなんて出来ない。
その入り口を開いたのは、高利が忠告してくれた女との関係の清算をしようとしたからだ。
別れ話を切り出し、相手も素直にそれに応じて。無事に済んだと思っていた。意外に簡単に別れられた、なんて安心さえしていた。
そんな安心も1週間で打ち砕かれてしまうなんて、22才のバカな俺は気付きもしなかった。
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「佐々木将哉ってお前か?」
バイトを終え、アパートに向おうとしていた俺の目の前に現れたのは、完全に『一般人ではない』と分かる人間達が数人。
取り囲まれ、ピカピカに磨かれたスモークが貼られた高級車の後部座席に乗るように言われた。もちろん逆らえる訳もなく、言われるままに乗り込む。
連れ込まれたのは雑居ビルにある一室。
重苦しい空気の中、若くて威勢の良さそうな男数人に左右と背後を囲まれ、革張りのソファーに座らされた。
そして正面には、完全にヤクザだと見た目で分かる、がっしりとした体躯の、下品極まりないダサイ服装をした男が座っている。
「俺の妹に手出しておいて、勝手に別れたいとかほざいたのはお前か?」
1週間前に分かれた由紀の兄が、枯れ気味の低く地を這うような声で聞いてきた。その目は、完全に獲物を捕らえた野獣の目だ。言い訳なんて出来ない。
いや、言い訳なんてしてしまえば命さえ失ってしまいそうだった。
「申し訳ありません」
革張りのソファーからおり、無様かどうかなんて考える事もないままに土下座をしていた。完全降伏だ。それ以外に方法なんてある訳がない。
「どう責任取ってくれるんだ?」
その質問が出てくる時点で…答えなんて2択しかないのは誰だって察しが付く。由紀とヨリを戻すのか、『おとしまえ』を付けろって事しかない。
自分がどっちを選択するのか、と言うよりは相手がどっちを切り出してくるのかの方が重要だって事も分かる。
「どうすれば良いですか?由紀さんを傷付けたのであれば、男として責任を果たします」
「由紀が受けた傷は、お前が頭下げたくらいじゃ消えないんだ。責任を果たすって言うなら、それなりの誠意を見せてもらわないとな。
付き合っていた2ヶ月間の慰謝料、一ヶ月400万円として合計800万円。来週の金曜までに用意しておけ」
それだけ言うと、男は静かに笑みを浮かべ手下の男達に話は終わりだと告げた。
まるでゴミでも捨てるように、つまみ出されるようにビルの中から引き摺り出され、車に乗せられた。そして自分のアパート近くまで来ると、
「逃げるなよ」と念を押され、ゴミのように放り出された。
アパートに戻っても茫然自失のままだ。目の前が真っ暗で、逃れられない現実が追ってくるのを肌で感じた。
このまま逃げても、いつか見付かってもっと酷い目に遭うに決まっている。けれど、要求を素直にのめば…それで終わりとも思えない。
ずるずると良いだけ吸い取られ、命果てるまで搾り取られてしまう気さえした。
逃げる事も、向き合う事も過酷な現実に、涙さえ出てこない。
このまま消えてしまえたら、なんて思うようになっていた。